東平郡(とうへい-ぐん)は、中国にかつて存在した郡。漢代から唐代にかけて、現在の山東省済寧市一帯に設置された。
概要
紀元前144年(前漢の景帝中6年)、梁王劉武の子の劉彭離が済東王に封じられると、済東国が置かれた。紀元前116年(元鼎元年)、済東王劉彭離が廃位されると、済東国は廃止され、大河郡が置かれた[1]。紀元前52年(甘露2年)、宣帝の子の劉宇が東平王となり、東平国が立てられた[2]。東平国は兗州に属し、無塩・任城・東平陸・富城・章・亢父・樊の7県を管轄した。王莽のとき、有塩郡と改称された[3]。
後漢が建てられると、東平郡と改称された。39年(建武15年)に光武帝の子の劉蒼が東平公に封じられ、41年(建武17年)に東平王に進んで、東平国がまた立てられた[4]。東平国は無塩・東平陸・富成・章・寿張・須昌・寧陽の7県を管轄した[5]。
曹魏が建国されると、東平国は廃止されて、東平郡とされた。232年(太和6年)、曹徽が東平王となり、東平国が立てられた[6]。
265年(泰始元年)、西晋が建国されると、司馬楙が東平王に封じられ、東平国が立てられた[7]。東平国は須昌・寿張・范・無塩・富城・東平陸・剛平の7県を管轄した[8]。
南朝宋のとき、東平郡は無塩・平陸・須昌・寿昌・范の5県を管轄した[9]。
北魏のとき、東平郡は済州に属した[10]。
583年(開皇3年)、隋が郡制を廃すると、東平郡は廃止されて、兗州および済州に編入された。590年(開皇10年)、済州・兗州・曹州の一部を併合して、鄆州が立てられた。607年(大業3年)に州が廃止されて郡が置かれると、鄆州は東平郡と改称された。東平郡は鄆城・鄄城・須昌・宿城・雷沢・鉅野の6県を管轄した[11]。
621年(武徳4年)、唐が徐円朗を平定すると、東平郡を鄆州と改めた。742年(天宝元年)、鄆州は東平郡と改称された。758年(乾元元年)、東平郡は鄆州と改称され、東平郡の呼称は姿を消した[12]。
脚注
- ^ 『史記』梁孝王世家
- ^ 『漢書』宣帝紀
- ^ 『漢書』地理志上
- ^ 『後漢書』光武十王列伝
- ^ 『後漢書』郡国志三
- ^ 『三国志』魏書武文世王公伝
- ^ 『晋書』武帝紀
- ^ 『晋書』地理志上
- ^ 『宋書』州郡志一
- ^ 『魏書』地形志二中
- ^ 『隋書』地理志中
- ^ 『旧唐書』地理志一