蒲州(ほしゅう)は、中国にかつて存在した州。南北朝時代から民国初年にかけて、現在の山西省運城市一帯に設置された。
魏晋南北朝時代
432年(延和元年)に北魏により設置された泰州を前身とする。北周により泰州は蒲州と改称された。
隋代
隋初には、蒲州は2郡4県を管轄した。595年(開皇15年)に虞州が廃止されると、その管轄県が編入された。607年(大業3年)、郡制施行に伴い、蒲州は河東郡と改称され、下部に10県を管轄した[1]。隋代の行政区分に関しては下表を参照。
唐代
618年(武徳元年)、唐により河東郡は蒲州と改められた。713年(開元元年)、中都が置かれ、蒲州は河中府と改められたが、まもなく蒲州にもどされた。742年(天宝元年)、蒲州は河東郡と改称された。758年(乾元元年)、河東郡は蒲州と改称された。760年(乾元3年)、再び河中府が置かれた。河中府は河東道に属し、河東・河西・臨晋・解・猗氏・虞郷・永楽・宝鼎・竜門・聞喜・万泉の11県を管轄した[2]。
宋代・金代
北宋のとき、河中府に護国軍節度が置かれた。河中府は永興軍路に属し、河東・臨晋・猗氏・虞郷・万泉・竜門・栄河の7県を管轄した[3]。
1128年(天会6年)、金により河中府は蒲州に降格された。1149年(天徳元年)、蒲州は河中府に昇格した。金の河中府は河東南路に属し、河東・栄河・虞郷・万泉・臨晋・河津・猗氏の7県と永楽・合河・北郎・胡壁の4鎮を管轄した[4]。
元代
元のとき、河中府は晋寧路に属し、河東・万泉・猗氏・栄河・臨晋・河津の6県を管轄した[5]。
明代以降
1369年(洪武2年)、明により河中府は蒲州と改められた。蒲州は平陽府に属し、臨晋・栄河・猗氏・万泉・河津の5県を管轄した[6]。
1724年(雍正2年)、清により蒲州は直隷州に昇格した。1728年(雍正6年)、蒲州直隷州は蒲州府に昇格した。蒲州府は山西省に属し、永済・臨晋・虞郷・栄河・猗氏・万泉の6県を管轄した[7]。
1913年、中華民国により蒲州府は廃止された。
脚注
- ^ 『隋書』地理志中
- ^ 『旧唐書』地理志二
- ^ 『宋史』地理志三
- ^ 『金史』地理志下
- ^ 『元史』地理志一
- ^ 『明史』地理志二
- ^ 『清史稿』地理志七