榊田 敬二(、1900年〈明治33年〉1月15日[出典 2] - 没年不詳)は、日本の俳優[出典 3]。本名・旧芸名は榊田 敬治(読み同じ)[6][8]。おもに現代劇に出演し、戦後は東宝特撮に多く出演[8][10]。
人物・来歴
1900年(明治33年)1月15日、秋田県[3][4]仙北郡大曲町[注釈 1]に生まれる[6][8]。
東京に移り、旧制・赤坂中学校(現在の日本大学第三高等学校)を卒業後、1921年(大正10年)10月、高田馬場に撮影所を持つ小松商会に入社し、『熱火の狼』に出演し、満21歳で映画界にデビューした[出典 4]。1923年(大正12年)9月1日の関東大震災の後、京都に移り、日活大将軍撮影所に入社、1924年(大正13年)7月4日に公開された三枝源次郎監督の『民族の黎明』に出演している[6]。同撮影所での出演記録は不明であるが、1926年(大正15年)早々までには東京に移り、高松豊次郎のタカマツ・アズマプロダクションの作品に出演。同年1月22日に公開された山本嘉次郎および横田豊秋(のちの俳優宇留木浩)の共同監督による『男児一諾』に出演しているが、同作の製作は「マキノ・プロダクション東京撮影所」(マキノ東京派)、実体は「タカマツ・アズマプロダクション」である。1927年(昭和2年)秋には京都に戻り、日活大将軍撮影所で脇役を務めている。
1930年(昭和5年)、太秦撮影所を使用していた帝国キネマ演芸に移籍し、同年11月20日に公開された高見貞衛監督の『素晴らしい奴』などに出演したが、同社は翌1931年(昭和6年)8月28日に新興キネマに改組されたため、榊田は、この新会社に継続入社する[6]。1935年(昭和10年)12月末、太秦帷子ヶ辻中開町(現在の右京区太秦堀ヶ内町)に、牧野省三の長男であるマキノ正博がトーキーのための新しい撮影所を建設した新会社、マキノトーキー製作所を設立、これに参加する[11]。同社は1937年(昭和12年)4月に解散するが、榊田は前年中に東京に移り、P.C.L.映画製作所に参加、1937年(昭和12年)9月10日に合併して設立された東宝映画に継続入社[6][4]。これを機に従来本名を用いていたが、芸名を「榊田 敬二」とする[6][4]。
第二次世界大戦が終結した1945年(昭和20年)8月15日以降も、東宝争議以降も、東宝に所属し、多くの作品に出演を続けた[6]。満62歳を迎えた1962年(昭和37年) - 1965年(昭和40年)の間は、ペースをダウンして休業した[6]。満68歳を迎え、1968年(昭和43年)6月8日に公開された森谷司郎監督の『首』を最後に引退したが[6]、1975年(昭和50年)3月15日に公開された本多猪四郎監督の『メカゴジラの逆襲』まで、端役で出演した。
フィルモグラフィ
すべてクレジットは「出演」である[出典 5]。公開日の右側には役名[出典 5]、および東京国立近代美術館フィルムセンター(NFC)所蔵などの上映用プリントの現存状況についても記す[11][12]。同センターなどに所蔵されていないものは、とくに1940年代以前の作品についてはほぼ現存しないフィルムである。
初期
タカマツ・アズマプロダクション
特筆以外はすべて製作・配給はタカマツ・アズマプロダクションである。
日活大将軍撮影所
すべて製作は日活太秦撮影所、配給は日活である[9]。
帝国キネマ演芸
すべて製作・配給は帝国キネマ演芸である。すべて「榊田敬治」名義である。
新興キネマ
特筆以外すべて製作・配給は新興キネマである。すべて「榊田敬治」名義である。
- 新興キネマ
- 『最後の審判』 : 監督印南弘、1931年10月4日公開 - 木村訓導
- 『ガラマサどん』 : 監督木村恵吾、1931年11月5日公開 - 松本
- 『噂の女』 : 監督木村恵吾、1931年12月19日公開 - 写真師
- 『姉』 : 監督高見貞衛、1931年12月24日公開 - 佐藤家の使用人
- 『丸の内五人女』 : 監督曾根純三、1931年12月31日公開 - 社会部長
- 『鉄の花環 前篇 暴風を呼ぶもの』 : 監督曾根純三、1932年1月14日公開 - 松雄
- 『鉄の花環 後篇 相寄る魂』 : 監督曾根純三、1932年2月4日公開 - 松雄
- 『満州行進曲』 : 監督川浪良太、1932年3月3日公開 - 志戸一等兵
- 『エンコの六』 : 監督曾根純三、1932年3月24日公開 - イデオロギーの鉄
- 『満州娘』 : 監督渡辺新太郎、1932年6月10日公開 - 相沢静夫
- 『姿なき怪盗 前篇』 : 監督曾根純三、1932年9月22日公開 - 尾形稔
- 『満蒙建国の黎明』 : 監督溝口健二、製作入江プロダクション・中野プロダクション・新興キネマ、配給新興キネマ、1932年9月29日公開 - 李石常
- 『太陽の娘』 : 監督渡辺新太郎、1932年10月6日公開 - 事務員・林
- 『姿なき怪盗 後篇』 : 監督曾根純三、1932年11月17日公開 - 尾形稔
- 『よみがえる暁』 : 監督渡辺新太郎、1932年12月1日公開 - 文士水上
- 『街の青空』 : 監督木村恵吾、1933年2月3日公開 - 尾形の乾分
- 『間貫一』 : 監督木村恵吾、1933年5月11日公開 - 運転手
- 『紙芝居』 : 監督寿々喜多呂九平、1933年5月21日公開 - 武
- 『ゴトク倶楽部』 : 監督上野信二郎、1933年10月8日公開 - 甚太の父
- 『やどり木』 : 監督寿々喜多呂九平、1933年12月27日公開 - 国井彦弥
- 『愛のゴーストップ』 : 監督上野信二郎、1934年2月8日公開 - 風野
- 『心の波止場』 : 監督阿部豊、1934年2月15日公開 - 岩田老人
- 『河の上の太陽』 : 監督内田吐夢、1934年5月17日公開
- 『牧場の兄弟』 : 監督木村恵吾、1934年5月31日公開 - 巡査
- 『男の掟』 : 監督田中重雄、1934年7月14日公開 - お美津の伯父
- 『前科もの二人女』 : 監督石田民三、1934年7月31日公開 - 望月輝太郎
- 『巨人街』 : 監督田中重雄、1934年9月13日公開 - 小林先生
- 『子を持つ処女』 : 監督上野真嗣、1934年11月8日公開 - 周平
- 新興キネマ東京撮影所
マキノトーキー製作所
特筆以外すべて製作は「マキノトーキー製作所」、配給は「千鳥興行」である。すべて「榊田敬治」名義である。
P.C.L.映画製作所
すべて製作は「P.C.L.映画製作所」、配給は「東宝映画」である。すべて「榊田敬治」名義である。
東宝映画東京撮影所
特筆以外すべて製作は「東宝映画東京撮影所」、配給は「東宝映画」である[10]。特筆以外すべて「榊田敬二」名義である[10]。
- 『たそがれの湖』 : 監督伏水修、「榊田敬治」名義、1937年12月21日公開 - 昆虫博士(生物家者)
- 『阿部一族』 : 監督熊谷久虎、製作東宝映画東京撮影所・前進座、配給東宝映画、「榊田敬治」名義、1938年3月1日公開 - 家老、105分尺で現存(NFC所蔵[11])
- 『巨人伝』 : 監督伊丹万作、1938年4月11日公開 - 寺男、127分尺で現存(NFC所蔵[12])
- 『鶴八鶴次郎』 : 監督成瀬巳喜男、「榊田敬治」名義、1938年9月29日公開 - 観客、88分尺で現存(NFC所蔵[11])
- 『鶯』 : 監督豊田四郎、製作東京発声映画製作所、配給東宝映画、「榊田敬治」名義、1938年11月9日公開 - 出札係、71分尺で現存(NFC所蔵[11])
- 『武道千一夜』 : 監督滝沢英輔、1938年12月11日公開 - 書役宇兵衛
- 『浪人吹雪』 : 監督近藤勝彦、1939年1月11日公開[6]
- 『美はしき出発』 : 監督山本薩夫、1939年2月21日公開[6]
- 『娘の願は唯一つ』(『娘の願ひは唯一つ』) : 監督斎藤寅次郎、1939年3月14日公開、36分尺で現存(NFC所蔵[11])
- 『忠臣蔵 前篇』 : 監督滝沢英輔、1939年4月21日公開 - 月岡治左衛門
- 『忠臣蔵 後篇』 : 監督山本嘉次郎、1939年4月21日公開 - 月岡治左衛門
- 『上海陸戦隊』 : 監督熊谷久虎、1939年5月20日公開 - 池田
- 『白蘭の歌 前篇』 : 監督渡辺邦男、1939年11月30日公開 - 移民村団長
- 『白蘭の歌 後篇』 : 監督渡辺邦男、1939年11月30日公開 - 移民村団長
- 『金語楼の親爺三重奏』 : 監督小国英雄、1939年12月13日公開 - 馬子
- 『化粧雪』 : 監督石田民三、1940年2月14日公開 - 守衛、75分尺で現存(NFC所蔵[11])
- 『蛇姫様』 : 監督衣笠貞之助、1940年4月3日公開 - 清兵衛、127分尺で現存(NFC所蔵[12])
- 『釣鐘草』(『乙女シリーズその二 花物語 釣鐘草』) : 監督石田民三、1940年7月2日公開 - 役名不明、36分・53分尺で現存(NFC所蔵[11])
- 『続蛇姫様』 : 監督衣笠貞之助、1940年8月14日公開 - 清兵衛
- 『旅役者』 : 監督成瀬巳喜男、製作東宝映画京都撮影所、配給東宝映画、1940年12月18日公開 - 百姓、70分尺で現存(NFC所蔵[11])
- 『親子鯨』 : 監督斎藤寅次郎、製作東宝映画京都撮影所、京都撮影所、配給東宝映画、1940年12月18日公開 - 小使、75分尺で現存(NFC所蔵[11])
- 『なつかしの顔』 : 監督成瀬巳喜男、製作東宝映画京都撮影所、配給東宝映画、1941年1月22日公開 - 馬方
- 『暁の進発』 : 監督中川信夫、製作東宝映画京都撮影所、配給東宝映画、1941年1月24日公開 - 北村上等兵
- 『子宝夫婦』 : 監督斎藤寅次郎、1941年2月26日公開 - 職工A
- 『馬』 : 監督山本嘉次郎、製作東宝映画東京撮影所・映画科学研究所、配給東宝映画、1941年3月11日公開 - 組合の事務員
- 『人生は六十一から』 : 監督斎藤寅次郎、製作東宝映画東京撮影所・吉本興業、配給東宝映画、1941年4月22日公開 - 無料宿泊所管理人
- 『白鷺』 : 監督島津保次郎、1941年5月1日公開 - 紳士、99分尺で現存(NFC所蔵[12])
- 『雲月の妹の歌』 : 監督石田民三、1941年5月14日公開 - 小使、85分尺で現存(NFC所蔵[11])
- 『秀子の車掌さん』 : 監督成瀬巳喜男、製作南旺映画、配給東宝映画、1941年9月17日公開 - バス会社の客、51分尺で現存(NFC所蔵[11])
- 『指導物語』 : 監督熊谷久虎、1941年10月4日公開 - 田舎駅の助役、111分尺で現存(NFC所蔵[11])
- 『八十八年目の太陽』 : 監督滝沢英輔、1941年11月15日公開 - 造船部長、101分尺で現存(NFC所蔵[12])
- 『若い先生』 : 監督佐藤武、1942年3月20日公開 - 父親
- 映画配給社配給
- 『水滸伝』 : 監督岡田敬、配給映画配給社、1942年7月2日公開 - 杜遷
- 『母は死なず』 : 監督成瀬巳喜男、配給映画配給社、1942年9月24日公開 - 職業紹介所係員、61分尺で現存(NFC所蔵[12])
- 『ハワイ・マレー沖海戦』 : 監督山本嘉次郎、配給映画配給社、1942年12月3日公開 - 郵便集配人[13](老郵便配達)、116分尺で現存(NFC所蔵[12])
- 『伊那の勘太郎』(改題『伊那節仁義』) : 監督滝沢英輔、配給映画配給社、1943年1月3日公開 - 浪人、67分尺で現存(NFC所蔵[12])
- 『愛の世界 山猫とみの話』 : 監督青柳信雄、配給映画配給社、1943年1月14日公開 - 村人石松
東宝
特筆以外すべて製作・配給は東宝である[10]。特筆以外すべて「榊田敬二」名義である[10]。
テレビドラマ
脚注
注釈
出典
- ^ a b c d e f 東宝特撮映画全史 1983, p. 530, 「怪獣・SF映画俳優名鑑」
- ^ a b c d e f ゴジラ大百科 1993, p. 120, 構成・文 岩田雅幸「決定保存版 怪獣映画の名優名鑑」
- ^ a b c d e f モスラ映画大全 2011, p. 63, 「脇役俳優辞典21」
- ^ a b c d e f g h i 初代ゴジラ研究読本 2014, p. 110, 「オール初代ゴジラ俳優大図鑑」
- ^ a b c d e f g h i j k l 野村宏平、冬門稔弐「1月15日」『ゴジラ365日』洋泉社〈映画秘宝COLLECTION〉、2016年11月23日、21頁。ISBN 978-4-8003-1074-3。
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r キネマ旬報社[1979], p.235.
- ^ a b 榊田敬二、日本映画情報システム、文化庁、2012年12月12日閲覧。
- ^ a b c d e 榊田敬二、KINENOTE、2012年12月12日閲覧。
- ^ a b c 榊田敬二、日活データベース、2012年12月12日閲覧。
- ^ a b c d e f g 榊田敬二、映画データベース、東宝、2012年12月12日閲覧。
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u 榊田敬治、東京国立近代美術館フィルムセンター、2012年12月11日閲覧。
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s 榊田敬二、東京国立近代美術館フィルムセンター、2012年12月11日閲覧。
- ^ a b c d 東宝特撮映画全史 1983, pp. 535–538, 「主要特撮作品配役リスト」
- ^ “映画資料室”. viewer.kintoneapp.com. 2022年2月26日閲覧。
- ^ 東宝特撮映画大全集 2012, p. 9, 「『透明人間』作品解説/俳優名鑑」
出典(リンク)
参考文献
外部リンク