片山 東熊(かたやま とうくま、嘉永6年12月20日(1854年1月18日)- 1917年(大正6年)10月24日)は、明治期に活躍した建築家。工手学校(現工学院大学)造家学科教務主理。位階および勲等は正三位勲一等。号は晩晴。
山口県生まれ。工部大学校の建築学科第1期生。
宮内省で赤坂離宮など宮廷建築に多く関わる。職務として県庁や博物館、宮内省の諸施設など36件の設計に関わったほか、公務の合間に貴族の私邸を中心に14件の設計を行った。
日本人建築家の養成を行うべく来日した、ジョサイア・コンドルによる最初の学生の一人である。
代表作である旧東宮御所(現・迎賓館)は、2009年に明治期以降の建築としては初めて国宝に指定された。
経歴
エピソード
- 片山は奇兵隊の少年従士であり、また、兄の湯浅則和が兵部省の山城屋事件で長州閥の山縣有朋をかばい辞職。このため山縣は生涯片山を引き立てたという。明治12年ごろ、山縣が麹町区五番町に自宅を新築する際には、片山が在籍する工部大学校造家学科第1期生の4名(辰野金吾、片山東熊、曽禰達蔵、佐立七次郎)で学生コンペを行ない、片山案を採用し、片山の処女作として木造家屋を建設した[1]。この山縣の後ろ盾のおかげで、就職の際も担当教授であるジョサイア・コンドルに頼らずとも、宮内省への道が開かれた[2]。
- 東宮御所の建設に心血を注ぎ、完成の報告を明治天皇に行ったところ、一言「贅沢すぎる」と言われてショックを受け、病気がちとなったという。
秋山徳蔵に怒鳴りつけられる
- 宮内省(戦後は宮内庁)で長く主厨長を務め、「天皇の料理番」として著名な秋山徳蔵は、宮内省大膳寮に採用されてからわずか一カ月ほどしか経っていない頃、片山を怒鳴りつけたことがある。ある日、厨房の裏口から突然立派な風体の男性とそのお供らしき洋服姿の男性らが4、5人入って来た。男らは厨房用の上履きに履き替えず下足のまま入って来たので、秋山は激怒して『馬鹿野郎』、『間抜け野郎』と怒鳴りつけた。男らが出て行った後、怒鳴りつけた相手が片山であるとわかり、秋山は多少言い過ぎたかなとは思ったものの気にかけないでいた。すると、今度は正規の入口から白衣を着て上履きのスリッパを履いた集団が入って来た。秋山の上司である大膳頭福羽逸人に案内された片山ら一行であった。さすがの秋山も25、26歳の若輩者が五十年配の宮内省高官を怒鳴りつけてしまったことを気まずく感じ、そそくさとその席を外してしまった。
- それから小一時間ほど経ってから上司の福羽から呼び出された。秋山は、これは叱られるなと覚悟して大膳頭室に入ったら、以下のように諭されたという[3]。
「さっき片山内匠頭が厨房を拝見にこられたんだが――裏口から、土足で入られたそうだね」
「そうです」
「片山さんも、悪かったといっておられた。しかしだね、秋山君。役所では『馬鹿野郎』とか『間抜け野郎』なんて乱暴な言葉は使わない方がいいよ」
「はい」
「ではよろしい」
親族
妻は琵琶湖疏水を築いたことで有名な土木技術者田辺朔郎の姉鑑子で、子供はいないため、長兄湯浅則和の子鉱三郎を養子とした。その後も鎮熊、東彦と続く。
栄典・授章・授賞
- 位階
- 勲章等
主な作品
現存する片山の作品の多くが重要文化財に指定されているほか、旧東宮御所(現・迎賓館)は明治時代の洋風建築の到達点と評され、明治以降の建築としては初の国宝に指定されている。
-
新宿御苑御休所
-
奈良国立博物館本館
-
京都国立博物館特別展示館
-
仁風閣
-
東京国立博物館表慶館
-
神宮徴古館
韓国ソウル市にある李朝末期の大院君の私邸雲峴宮内にある洋館(1907年)も片山東熊の設計とされるが[13]、確証がないとも言われる[14]。
脚注
参考文献
- 建築学会、大正6年(1917年) 『建築雑誌 第三一輯 第三七二號』
- 片山博士を弔ふ 『建築雑誌』 (372), 1-22, 1917-12
- 『大手前大学社会文化学部論集 4』
- 塩田昌弘、「片山東熊とその時代」『大手前大学社会文化学部論集』 (4), 75-95, 2003
関連項目
ウィキメディア・コモンズには、
片山東熊に関連するカテゴリがあります。