留萌郡(るもいぐん)は、北海道(天塩国)留萌振興局の郡。
人口2,694人、面積627.22km²、人口密度4.3人/km²。(2024年10月31日、住民基本台帳人口)
以下の1町を含む。
郡域
1879年(明治12年)に行政区画として発足した当時の郡域は、上記1町に留萌市を加えた区域にあたる。
歴史
郡発足までの沿革
江戸時代の留萌郡域は西蝦夷地に属し、慶長年間ころから松前藩によってルルモッペ場所が開かれていた。江戸時代中期の天明6年には留萌神社が創建されている。江戸時代後期になると文化4年国防上の理由から留萌郡域は天領とされた。
文化5年には留萌支配人山田屋文右衛門によって雨竜越と呼ばれる留萌からニセバルマ、エタイベツを経て石狩川流域のシラリカ(石狩国の樺戸郡と雨竜郡の境界の川)に出る約25里(98.2km)の道が開削された。また、北見国宗谷郡方面へは沿岸部を陸路で通行でき、留萌場所に馬を配置する際は北見国経由で送られていた。
文政4年には一旦松前藩領に復したものの、安政2年再び天領となり庄内藩が留萌に出張陣屋を築き警固を行い、同6年の6藩分領により庄内藩領となっている。戊辰戦争(箱館戦争)終結直後の1869年、大宝律令の国郡里制を踏襲して留萌郡が置かれた。郡名の決める際に松浦武四郎は読みを「ルルモエ」と提案したが、開拓使公文録では「ルルモッペ」となっていた。後に現在の読みである「ルモイ」が定着する。
郡発足以降の沿革
- 明治2年
- 明治4年8月20日(1871年10月4日) - 再び開拓使の管轄となる。
- 明治5年
- 明治9年(1876年)9月 - 従来開拓使において随意定めた大小区画を廃し、新たに全道を30の大区に分ち、大区の下に166の小区を設けた。
明治9年の大区小区
- 第30大区
- 1小区 : 鬼鹿村、天登雁村
- 2小区 : 三泊村
- 3小区 : 留萌村、礼受村
市町村合併
留萌市、小平町と増毛郡増毛町は「留萌南部三市町合併協議会」を2004年(平成16年)7月に設置し、合併を目指していたが、合併協議会は2005年(平成17年)2月に解散した。
参考文献
関連項目