磯谷郡(いそやぐん)は、北海道(後志国)後志総合振興局の郡。
人口4,430人、面積449.78km²、人口密度9.85人/km²。(2024年10月31日、住民基本台帳人口)
以下の1町を含む。
郡域
1879年(明治12年)に行政区画として発足した当時の郡域は、上記1町に寿都郡寿都町の一部(磯谷町)を加えた区域にあたる。
歴史
郡発足までの沿革
かつては磯屋郡と表記した。磯谷(磯屋)の名称は現在寿都郡寿都町に編入された磯谷・横澗の付近から発生した地名で、アイヌ語の「イソヤ(iso-ya)」(岩磯の・岸)に字を当てたものであった[1]。
江戸時代、磯屋郡域は和人地となる。松前藩によってイソヤ場所が開かれていた。陸上交通は、渡島国から天塩国増毛郡への道のりの途上であったが、北の岩内郡へは雷電峠が難所となって陸路が途絶えて舟に頼っており、安政年間に磯谷請負人の桝屋栄五郎がアフシタ以西の一里あまりを開削し、岩内請負人仙北屋仁左衛門がアフシタ以東の2里(7.9.km)余を開削、以降、雷電嶺(国道229号の前身)では通年の陸路での移動が可能となった。また、このとき中間の温泉(朝日温泉の前身)には箱館在住の又兵衛を家守とする家を建て、通行の官吏旅客の便を図った。
江戸時代後期の文化4年には、磯屋郡域は天領とされた。文政年間以前、伊都岐島神社(寿都町字磯谷町横澗)が創建される。文政4年には磯屋郡域は一旦松前藩の元に戻された。天保年間には稲荷神社(蘭越町字港町)が磯谷場所請負人・西川順兵衛によって創建されている。安政2年再び天領となり庄内藩が警固にあたった。安政3年、願翁寺が島古丹の大黒沢(磯谷村)に建立された。戊辰戦争(箱館戦争)終結直後の1869年、大宝律令の国郡里制を踏襲して磯屋郡が置かれた。
郡発足以降の沿革
- 明治2年
- 明治4年
- 明治5年
- 明治9年(1875年)9月 - 従来開拓使において随意定めた大小区画を廃し、新たに全道を30の大区に分ち、大区の下に166の小区を設けた。
脚注
参考文献
関連項目
外部リンク