竜 雲(りゅう うん)は、中華民国、中華人民共和国の軍人・政治家。中華民国時期の滇軍(雲南軍、雲南派)の指導者の1人。国民政府期の雲南省政府主席である。字は志舟、元名は登雲。彝族出身。彝族名は、納吉鳥梯。
事跡
滇軍での台頭
1911年(宣統3年)、竜雲は四川省で展開されていた鉄道保護運動に参加する。同年、四川へ進軍していた謝汝翼の滇軍に加わった。
1912年(民国元年)に雲南省へ戻り、雲南陸軍講武学校に入学する。1914年(民国3年)、雲南陸軍講武堂第4期騎兵科を卒業し、雲南将軍唐継尭の指揮下に入った。唐に下級将校から1歩1歩抜擢されて、1916年(民国5年)には近衛兵の隊長になる。
1921年(民国10年)に唐継尭が顧品珍に追われても、竜雲は引き続き唐を支持し、広西省に駐屯していた李友勳率いる滇軍の前敵司令となる。翌年の唐継堯による雲南帰還の戦いで李友勳が戦死すると、竜がその後任となった。同年3月、顧を倒して唐が復権すると、竜は滇軍第5軍軍長兼滇中(昆明)鎮守使に任命されている。
1927年(民国16年)2月、竜雲は同僚の滇軍軍長胡若愚らとともに、国民政府に服従しようとせず、また縁故政治に走ろうとしていた唐継尭を失脚させた(「2・6政変」)。しかし、その後の実権争いから、同年6月、竜は胡らに急襲、拘禁されてしまう(「6・14政変」)。なお、このときに竜は左目を負傷し、以後治ることはなかった。まもなく竜雲配下の師長盧漢らが、胡への反撃に転じて竜を奪回した。竜雲はその後の雲南省内の内戦で、胡ら敵対勢力をすべて撃破した。
雲南王竜雲
竜雲は国民政府から、同年8月には国民革命軍第38軍軍長に任命される。1928年(民国17年)1月には雲南省政府主席・国民革命軍第13路軍総指揮(第38軍軍長兼任)に就任した。1929年(民国18年)春には討逆軍第10路総指揮(第38軍軍長兼任)に任命されている。これ以後、1945年(民国34年)までの統治により、竜雲は「雲南王」と称された。
この間、国民政府・中国国民党内の争いでは、竜雲は蔣介石支持を堅持する。1929年(民国18年)、竜雲は滇軍を貴州省に送り込み、李宗仁ら新広西派に与する貴州省政府主席周西成を攻撃して、これを戦死させた。1930年(民国19年)5月には、盧漢らを広西省へ侵攻させたが、省会(省都)南寧を攻略できず、撤退した。1931年(民国20年)3月、盧漢ら配下の軍人たちが、竜雲に対して兵変を起こしたが(「3・10政変」)[1]、竜は何とか盧らを降伏させている。
竜雲の雲南省統治は、繆雲台(繆嘉銘)・陸崇仁など優れた官僚たちの支えもあり、内政でも経済・社会・教育等の多方面における近代化建設に堅実な成果をあげた。当時の雲南の興隆には、蔣介石・宋美齢・陳布雷らも絶賛を与えているほどである。
1937年(民国26年)に日中戦争(抗日戦争)が勃発すると、竜雲は抗日統一戦線を支持した。竜は、盧漢率いる滇軍(国民革命軍第60軍)などを派遣し、また、昆明を後方基地として堅持するなど、日中戦争勝利に多大な貢献をする。なお、1938年(民国27年)に汪兆銘(汪精衛)と会談しているが、これを支持することはなかった。
しかし、日中戦争を通して蔣介石以下中央勢力が雲南省内に浸透・介入してきたため、「雲南モンロー主義」を望む竜雲は不満を抱くようになる。そのため、竜は1944年(民国33年)頃には中国民主同盟(民盟)に秘密裏に加入したとされ、さらに中国共産党との関係も強化した。この結果、蔣は竜の排除を決断する。1945年(民国34年)10月に、昆明に駐留していた中央軍の杜聿明率いる軍は、五華山(省政府政庁の所在地)にあった竜を突如襲撃し、これを拘束した。
雲南からの離脱後
失脚後の竜雲は、軍事委員会軍事参議院院長という名ばかりの職を与えられ、南京に3年間軟禁された。しかし1948年(民国37年)12月、クレア・リー・シェンノート(陳納徳)などに助けられ、竜雲は香港に逃亡した。さらに中国国民党革命委員会(民革)に参加して、その中央委員となっている。1949年10月1日に中華人民共和国が建国されると、竜雲は中央人民政府委員に列せられる。1950年1月に北京に入り、新政府に参加した。
以後、人民革命軍事委員会委員、西南軍政委員会副主席、西南行政委員会副主席、全国人民代表大会常務委員、中国人民政治協商会議全国委員会常務委員、中国国民党革命委員会中央常務委員会副主席などを歴任している。1956年にかつてのソビエト連邦、ルーマニア、チェコ、ユーゴスラビアなどの東欧諸国を訪問した。しかし、1957年の反右派闘争で、竜は右派と認定され、批判を被っている。
1962年6月27日、北京で死去。享年79(満77歳)。その翌日に、竜に対する右派の指定は取り消されている。1980年7月、竜は右派ではなかった、と政府が正式に宣言し、名誉が回復された。
脚注
- ^ 詳しい事情は不明だが、前年の敗戦後に軍縮を行ったこと、竜雲側近への不満等が原因とされる。
参考文献
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