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この項目では、兵庫県の高校について説明しています。その他の育英高等学校については「育英」をご覧ください。 |
育英高等学校(いくえいこうとうがっこう、英: Ikuei Senior Highschool)は、兵庫県神戸市長田区長尾町二丁目にある私立高等学校。
沿革
校風・特徴
錦華女子商業学校を除き[4]、2014年度まで男子生徒のみの男女別学、2015年度から男女共学[8]。
神戸育英義塾
兵庫県神戸市石井村字道佛259番地の2の石井村役場があった場所に校地が存在し[1]、1907年12月に西200メートル先の神戸市石井村字西良68番地の4に移転[9][10][注 1]、1913年2月14日に兵庫県神戸市の区政施行後における兵庫区東山町にあたる、兵庫県神戸市兵庫港地方字指上に移転する[11][12][注 2]。1913年5月に兵庫県立第一神戸中学校の旧校舎及び1907年12月建築の[9]旧校舎を移築する[14]。
1908年5月2日に本科が新設され、その1ヶ月後の6月2日に制服が制定される[15]。本科新設に併せ体操科において兵式体操が授業の一環として実施されており、甲種育英商業学校開校後の1915年においても体操科における兵式体操の導入は継続されていた[18]。
猟師協力の下、レクリエーション・集団行動訓練・疑似軍事訓練を兼ねた兎狩が頻繁に行われ、神戸育英義塾発足当時には名物行事として扱われていた[19][注 3]。
甲種育英商業学校
1915年、開校間もない頃の日本は教育勅語の奉読中の動作不敬を問題視する時代背景にあった[21][注 4]。甲種育英商業学校においても例外ではなく1916年2月、奉読中の生徒が動作不敬であったことを理由に2日間の停学処分を命じられたなど、奉読中の態度や姿勢は厳しく監視された[23][注 5]。奉読中の私語や咳払いも不敬とみなされた[24][注 6]。
「林間授業」と称した校外学習が存在し、天気の良い日は新湊川土手で頻繁に授業が行われた[26]。開校前後から部活動が本格化し、特に「講演部」「編集部[注 7]」などの言論活動は神戸育英義塾から盛んであった[19][注 8]。1917年時点で校内に植物園、銃器庫が存在した[13]。
育英商業学校
校地は1930年10月の移転まで[28]引き続き兵庫県神戸市兵庫区東山町にあたる場所に存在した[12]。1924年の11月に兵庫尋常高等小学校の旧校舎を移築する[12][注 9]。1930年10月の校地移転後は1945年5月1日の行政区再編以降における[29]長田区の一部である[28]須磨区西代柳谷10番地に校地を置く[17][注 10]。移転当時の木造校舎は建築家の清水栄二が設計に携わっており、木造建築でありながらペディメント部分にパラボラアーチ状の曲線が用いられている[31]。
学用品の購入の便宜と生徒の商業実習を兼ね、生徒・教職員のための消費組合が設立されていた[19]。1921年に育英消費組合規約が制定され[19]、学校職員が就任する組合長・副組合長・幹事・理事とは別に生徒も委員として組合の運営に参加することができ[19]、平等に議決権が与えられている[32]。
1923年4月1日に創立者の庄野一英校長が急死し[33]、同年10月29日に兵庫県立第一神戸中学校出身の池長孟[34]校長が就任してからは[注 11]同校の「昼食を屋外で立ち食いする」という、特徴的な校則が模倣された[25][注 12]。季節問わず[39]生徒は校舎外での昼食の立ち食いを強制され、寒い日も水道水を飲用するため蛇口に並んだ[25][注 13]。雨天の日に限って講堂の使用を許可され、校務員室で生徒は大きな薬缶から白湯を弁当箱の蓋などに入れてもらえた[25]。奇抜な教育方針ながら[35]池長校長就任後は、同じ大日本帝国陸軍出身の教育者である[35][41]「各有能(おのおののうあり)[42]」「士魂商才」を掲げていた庄野校長在職時とはまた大きく違った校風に変容していった[36]。
1925年7月に学校教練が本格的に授業に取り込まれ[43]、1937年には政府による戦争とそれを支える体勢の構築に国民を総動員する政策が次々と実施されることになり[注 14]、育英商業学校にもその思想統制の影響はおよび、学校の雰囲気はより厳粛なものに変遷する[39]。
生徒は厳寒期でも毛糸の下着の着用は禁止され[39]、ズボンのポケットは手を入れることができないように縫い付けることになっており[44]、時計・革靴・万年筆などの使用も贅沢品であるとの理由で許されなかった[45]。登校時には正門で週番の上級生による服装・持ち物の点検を受けることとなっており[注 15]、ボタン・ホックの掛け方、ゲートルを巻く位置をチェックされた[25]。中には南京豆の薄皮をタバコの屑と間違えられ、注意される生徒もいた[25][注 16]。点検後、奉安殿に向かって最敬礼し、朝礼・ラジオ体操の後、ラッパ鼓隊の吹奏に合わせて教室まで行進した[39]。校外においても制服・制帽・巻ゲートルを着用し、教師や上級生に合ったときには軍隊式の敬礼をしなければならなかった[45]。また渡り廊下で処罰生徒名の掲示なども行っていた[25]。1930年2月には衆議院議員総選挙の候補者の応援演説を行ったと思われる生徒が5日間の停学処分を受けるなど、校内で過剰な政治活動をする生徒も取り締まった[24]。
満洲事変後の国家主義・軍国主義的傾向が強まった国風の後押しもあり[46]、神戸育英義塾を含む明治末期から1945年の日本の敗戦まで、学校教練を始めとした軍事予備教育が生徒の学校生活を深く縛り付けていた[18][注 17]。
1917年時点で既に存在した銃器庫の他[13]、校地移転後においても校舎の斜め横に兵器庫があり、学校教練で用いる三八式歩兵銃が三十年式銃剣と一緒に約200丁ガンラックに掛け並べられていた[25][注 18]。戦時体制中、1944年8月からは校舎が[49]山本航空機部品製作所の工場に[50]、グラウンドは工員用の野菜栽培地に転用された[50][注 19]。第二次世界大戦末期の時点で既に学校教練と並行して掘られていた防空壕・防火池もグラウンドに存在した[51]。
1944年2月11日午後7時頃、失火のため[3]中央玄関付近から出火する[52]。水利の便が悪く消火活動が滞り[52]、午後8時30分に鎮火するも[52]校舎本館が全焼し、事務室のみ残る[30]。
1945年終戦後10月22日からはGHQの軍国主義・極端な国家主義的な思想及び教育の排除へと運ぶ政策が進められた影響もあり[53]、教育方針が一変する[49]。学校教練は禁止された他、集団行動訓練も禁じられた影響で朝礼は行われず、体育や遠足においても号令や隊列を組むことは憚られた[49]。終戦後においても日本本土空襲による負傷者や空襲を避けるために地方へ疎開していた生徒、海軍飛行予科練習生などに志願していた生徒は、しばらく学校に戻ることができず生徒数は激減する[49][注 20]。学校に復帰した生徒も服装は様々であり、軍事教育で顕著であった規律や秩序は失われていた[49]。1946年4月に登校者が増加し、不十分ながら授業の形態も整い始める[47][注 21]。
錦華女子商業学校
1943年10月に兵庫県を通じて教育ニ関スル戦時非常措置方策が育英商業学校に下達される[4]。これにより男子商業学校であった育英商業学校は国民学校令等戦時特例により、工業学校・農業学校・女子商業学校いずれかに転換することを余儀なくされる[56]。財団理事会での会議を経て1944年3月13日に育英商業学校を生徒募集停止とし、4月1日から錦華女子商業学校を併設した[4][注 22]。制服は制定されていない[50][60]。同年3月7日[61]、決戦非常措置要綱ニ基ク学徒動員実施要綱が閣議決定され、育英・錦華女子商業学校では5月より勤労動員が開始されており[30]、8月に校内に設けられた山本航空機部品製作所の工場における作業員として錦華女子商業学校の生徒が動員された[50]。
1945年8月16日に文部次官通牒の動員解除により事実上の動員解除となり[62]、21日に戦時教育令の廃止が決定され[63]、同月に育英・錦華女子商業学校も軍事教育を撤廃する[30]。終戦に伴い教育ニ関スル戦時非常措置方策も効力を喪失し、錦華女子商業学校は開校当初の目的と存在意義を失う[56]。在校生の卒業を待たずして1946年3月22日に錦華女子商業学校は廃校となり、同日に育英商業学校は生徒募集を再開する[6][注 23]。
育英中学校
学制改革に伴い、1947年4月1日に育英中学校を併設する[6]。1946年に入学した育英商業学校の生徒を中学二年生とし新一年生を迎えたが、当時は1944年本校舎全焼後の[30]再建がままならない状況であったため新一年生は2クラス80名の収容が限界だった[64]。入学者減少のため1955年2月28日に[6]生徒募集停止となる[65]。
育英高等学校
1969年11月末まで丸刈り校則が存在した[6][注 24]。1969年5月1日から屋内プールが存在していたが[6]1982年9月4日にプール撤去跡の工事がされており[68]、跡地には1983年9月6日に[6]第二体育館が建造された[69]。2015年に校舎の耐震補強工事と中庭の改修が竹中工務店によって施工され[70]、同年に少子化による入学者減少への対策の一環として男女共学化を施行する[8]。生徒数は2023年10月4日時点で1046人である[71]。「厳しさの中に自由あり[注 25]」「熱血学校」と謳っている[73]。
象徴
- 校章
校章の中心に「育」という字を配置し「はぐくむ(慈しみ育てる)」ことが教育の中心思想であることを表現している[74]。「育」という字の周囲が菊の花びらになっているのは以前、校地が新湊川の畔に位置していた為、その湊川にゆかりの深い菊水に因んであしらったものである[74][注 26]。
- 校歌
- 制服
1990年度以前[76]
1991年度[76] - 2014年度 [60]
2015年度[60] - 現在[77]
- シンボルマーク
「IKUEI」の最初の2文字である「I」と「K」をモチーフに図案化している[74]。「I」の部分は歴史と伝統を一本の芯として表現、「K」の部分は神戸の風に乗って変化する赤いリボンが歴史と合わさり、一つの新しいかたちを創ることにより、男女共学化への歩みを進めることが表現されている[74]。リボンの一部分にはスクールカラーであるブルーが入っている[74]。
- スクールカラー
「ブルー」[74]
コース制
第一学年の初めから、総合進学・文系進学・理系進学・特別進学(文・理系選択)コースの四つのコースを設けている。かつては一括して募集し、入学後に本人の希望や能力・適性等に応じて各コースに割り振られていたが、現在は出願時にいずれかのコースを選択している。進級前にテストを受け、そのテストの点数によっては任意、又は総合進学コースへ強制的にコースの変更が行われる場合がある。
- 総合進学コース(旧・一般クラス)
- 本学で最も初歩的な授業を行う。進学と銘打つが、就職等の進路にも対応する。生徒の殆どは指定校推薦で専門学校及び短期大学、大学へ進学する。
- 文系進学コース(旧・語学クラス)
- 国語・英語・地歴公民の学習に重点を置き、私立大学文系学部を目指す。
- 理系進学コース(旧・理数クラス)
- 数学・理科・英語の学習に重点を置き、私立大学理系学部を目指す。
- 特別進学(文・理系選択)コース(旧・特文クラス、特理クラス)
- クラス内で文系選択と理系選択に分かれる(旧制度では文系選択と理系選択とでクラスが分かれていた)。第一学年は文系・理系にかかわらずほとんど共通科目を履修し、第二学年・第三学年で文系・理系の選択科目が増え、目標にあった学習をしていく。国公立大学を目指す。毎月第2・第4土曜日に授業、若しくは進路講演会などがある。
部活動
硬式野球部の1993年夏(第75回)での優勝をはじめ、全国制覇の経験のある部活動も存在する。
運動部の一部では練習時間の確保のため、総合進学コースの生徒しか入部できない。
- 硬式野球部
- 軟式野球部
- 陸上競技部
- 剣道部
- バスケットボール部
- バレーボール部
- 柔道部
- 卓球部
- テニス部
- バドミントン部
- ハンドボール部
- サッカー部
- ダンス部
- 吹奏楽部
- 写真部
- 囲碁将棋部
- 美術部
- 科学部
- 書道部
主な不祥事
高校関係者と組織
高校関係者組織
- 同窓会
- 「火垂る会」と称した同窓会誌の販売[136]、卒業証書ホルダー贈呈、卒業生講演会などを行っている[137]。
- 育英高校硬式野球部OB会
- 硬式野球部における資金面の支援を行っている[138]。
学校長
著名な校内硬式野球部監督
著名な出身者
政治家
野球
柔道
バスケットボール
- 塚本清彦(元バスケットボール選手)
- 熊谷宜之(バスケットボール選手)
- 大西崇範(バスケットボール選手)
- 田中範昌(バスケットボール選手)
- 松崎賢人(バスケットボール選手)
- 藤本巧太(バスケットボール選手)
- 藤本裕(バスケットボール選手、モントリオールオリンピック日本代表)
- 千種信雄(バスケットボール選手、ミュンヘンオリンピック日本代表・モントリーオールオリンピック日本代表)
格闘
- 淺川誠二(ボクシング元日本フェザー級王者)
- 金本浩二(新日本プロレス・元三代目タイガーマスク)
- 井上智裕(レスリング選手、リオデジャネイロオリンピック日本代表)
- 中村昌永(空手家)
- 高橋昭五(レスリング選手)
芸能
その他
関連項目
脚注
注釈
- ^ 1999年11月時点における神戸石井郵便局付近にあたる場所に存在した[9]。
- ^ 新湊川に架かる洗心橋の南西すぐ[13]1200坪余りの共有地を借地し、そのうち約500坪を校地として運用していた[14]。1912年9月10日に借地願いを提出し後に受理された[15]、池長孟の義父である池長通が地主総代の[15]兵庫港地方組合より提供された土地である[16]。1918年10月22日にはさらに隣地2395坪の借地権を譲受契約した[17]。
- ^ 1900年10月、数英漢学会創立一周年記念に垂水村で[20]行われたのを皮切りに頻繁に兎狩が行われた[19]。
- ^ 内村鑑三不敬事件などをはじめとして、数々の不敬事件が問題になった[22]。
- ^ 教育勅語は天皇の言葉をそのまま伝える「勅語」という形式のため[21]。
- ^ こうした動作不敬の問題視は育英商業学校にも続いていき、3時間ほど立たされる懲戒を受けた生徒も存在した[25]。
- ^ 塾友会誌の編集を行う部活動[19]。
- ^ 開校後も受験科と実用英語科が残っていたが[27]1919年3月13日に神戸育英義塾は廃止された[17]。
- ^ 1920年6月26日に講堂・校舎の払い下げ申請が行われていた[17]。
- ^ 1932年6月16日、長田神社敷地内に氏社の分祀を設置した[30]。
- ^ 神戸市学務委員だった池長は嫌々校長を引き受けた[35]。池長は校長就任後、学校に革新的な思想を求めた[26]。当時の生徒手帳に記された「万華鏡」と題された教訓には「盲従するな。附和雷同するな。正義の為には千万人をも敵として戦へ」と記され、個人としての自立を鼓舞する意図があった[26]。一方で実業学校には一般教養が欠けていると意気込んで自ら授業を受け持つも「丸々1年かけてフランス革命だけを教える」「全校生徒を講堂に集めてレコードで名曲をかけながら1曲1曲解説する」といった問題のある授業等も行った[35]。庄野一英の死後は設立者・校主は庄野の妻になっており[34]、育英商業学校側は就任にあたり池長校長に名誉校長の肩書を与え、無給での就役を求めていた[36]。1928年には池長校長が設立者・校主となり経営の全権を握る[16]。
- ^ 昼弁当立食については第一神戸中学校に査察にきた文部省の大島義脩視学官にその存在を問題視されている[37]。また当時の新聞に「神戸中学は壮士の養成所なり」と批判的な記事をかかげられたこともあったなどして昼弁当立食は当時、社会的に批判が少なくはなかった[38]。
- ^ 立ったまま素早く食べなければならなかったとされているが、地面に座って食べる生徒も存在した[40]。
- ^ 1937年9月から始まった国民精神総動員運動や1937年5月の文部省による全国の学校への『国体の本義』の配布など[39]。
- ^ 一度でも校内処分を受けた生徒は週番にはなれなかった[39]。
- ^ 『大正四年度以降 処罰録』によると、処罰の対象となる問題行動で最も多かったのは試験中の不正行為だった[21]。複数人での協力による不正行為もあり、1923年7月には同一クラスの生徒15人が一斉処分されている[21]。他には喫煙による処分も多かった[21]。
- ^ 年に一度、陸軍の査閲官が来校し、教練の成果を点検する[47]。僅かな誤りも学校の名誉を傷つけるとされた[47]。
- ^ 兵器庫内の銃器などは配属将校によって保管状態の点検が行われ[48]、入念に整備されていた[25]。しかし1946年1月17日にアメリカ陸軍憲兵により兵器庫の調査が行われ、これらの兵器類は処分指令が下った[6]。1940年3月19日から校庭の北西側に建てられていた奉安殿も[39]同年に日本政府に破壊が命じられ実施された[49]。
- ^ 教室は炊事場になり、雨天体操場に動力機械が設置された[50]。
- ^ 神戸大空襲において敷地内に直接の被害はなかったが[54]、日本本土空襲によって生徒が死傷した[49]。海軍飛行予科練習生制度については育英商業学校在学中の在日朝鮮人生徒に纏わるトラブルもあった[55]。1944年8月頃にある生徒が、在日朝鮮人であり制度の対象でないことを理由に志願を却下される[55]。予科練習生になれなかったことを別の3人の在日朝鮮人生徒に話したところ「日本の為軍人となるは不都合なり」と憫笑した[55]。そのことをきっかけに憫笑した生徒3名が警察関係者に内偵された後、1945年1月17日に朝鮮独立を企図する会合を行った中心人物として治安維持法違反で検挙されている[55]。生徒3名を含む在日朝鮮人5人が検挙されることになった会合では米軍の日本本土上陸を支援する旨の発言の他、在日朝鮮人生徒が予科練習生に不採用になることについても在日朝鮮人を危険視・差別しているとして不満をあらわにしていた[55]。
- ^ 終戦直後においても食料事情が悪く午前中で授業が終了し、教科書がないので教師が持参した本を読んで授業を行うこともあった[47]。
- ^ 1943年10月4日に財団法人武井報效会が設立認可され、学校経営は法人化された[4]。1951年3月5日には1949年12月15日制定の私立学校法に基づき[57]学校法人武井育英会が設立認可され、育英中学校・高等学校の運営は移管している[6]。1944年3月13日時点で生徒募集停止前の最後の入学生が卒業する[58]1947年3月に育英商業学校の閉校が予定されていた[59]。
- ^ 在校生は神戸野田高等女学校・須磨高等女学校に転校する運びとなった[5]。
- ^ 三年生は10月から、他は12月から長髪許可と段階的な廃止となっている[6]。1963年度当時、生徒間での教師の評判が悪く、管理的で一方的な指導と丸刈り校則を含め不評だった[66]。1963年の夏には全校生徒1552人[67]のおおよそ半数、約700人の生徒たちが自由を求めて決起[66]。体育祭と文化祭を生徒による自主運営とすることを求め、約700人が屋上を占拠する授業のボイコットまでにも発展した[66]。最終的に交渉に赴いた永松忠雄校長と武井尹人理事長が[3]要求を承諾し、事態は収拾する[66]。
- ^ 2002年卒の埼玉西武ライオンズ所属の栗山巧は母校の校風について「校風として校則が厳しい」と触れている[72]。
- ^ 湊川の流域は菊水橋の上流、天王谷川が石井川と合流した地点から開始される[75]。
- ^ 平手や拳で数回殴られた[81]。殴られた夜[80]、寮に戻った男子生徒は[80]夕食時に頭痛を訴え、病院に運ばれた後に左目が単眼複視に陥ったため、複数の病院で検査したところ目の周りの骨が折れていることが判明し、手術が必要と診断された[81]。約10日間入院し、左目の単眼複視は回復したものの[80]、視力の低下などの後遺症は否めない予後となった[81]。
- ^ 顧問教諭は「指導を間違った。生徒に申し訳ないことをした」と反省し、部活動の指導を自粛した[81]。
- ^ 男子生徒は少女と面識はなく[90]、野球部の練習を終えて帰宅途中だったという[89]。
- ^ 女子中学生と一緒にいた女子中学生の友人が110番通報した[91]。
- ^ 事件発生から間もなく、警察から学校への連絡で把握はしていたが「家裁の決定が7月下旬に予定されており、その後に公表するつもりだった」と阪本勝彦校長は弁解している[92]。男子生徒の少年審判が7月26日、神戸家裁であり、伊東武是裁判官は中等少年院送致とする保護処分を決定した[85]。
- ^ この時点で兵庫大会で2勝し、24日に3回戦に臨む予定だった[92]。男子生徒(16)は出場選手として登録されていない[92]。男子生徒(16)は24日付で自主退学した[85]。
- ^ 藤村雅美監督退任後[93]、2011年に野球部監督が部員への暴力行為を行い、日本学生野球協会は9月8日、東京都内で行われた審査室会議で野球部監督に対して8月8日から謹慎1年の処分を下した[94]。
- ^ 野球部部長の男性教諭が三年生の男性生徒の練習態度に腹を立て頭部を殴った他[95]、5月上旬にも野球部員の二年生の男子生徒(16)が登校途中に、神戸市須磨区の神戸市営地下鉄西神・山手線、板宿駅のホームの[96]階段で、すれ違いざまに若い女性会社員[96]の胸や尻を触るなどの痴漢行為をしていたことが7月22日、学校関係者の証言で判明した[97]。
- ^ 24日に淡路球場で行われた[99]。阪本勝彦校長は「一個人のしたことで連帯責任を負うことはおかしい[86]。(兵庫大会の)辞退は考えていない」[92]県高校野球連盟理事長は「選手個人の問題なので、チームに罰則を与えることにはならない。地方大会出場に支障はない」[90]高野連の副会長は「ほかの部員が関与していない事実と、被害者とその家族に誠心誠意謝罪する意向が確認できた」と述べている[100]。
- ^ 試合後、7回コールドで完勝したのにも関わらずバスに向かう育英ナインに笑顔はなく、敗者のように下を向いていた[101]。報道陣は育英ナインを追いかけようとしたが、育英校のコーチに「今日は勘弁してやってください」と止められている[101]。藤村雅美監督は「選手たちにも聞こえていた。これからも中傷はあるだろう。耐えていかないと野球はできない」と語っている[101]。
- ^ 一連の不祥事で「精神的に疲れ果てた」と藤村監督は語っている[102]。藤村監督は引責退任した翌年10月26日に脳梗塞により亡くなった[103]。
- ^ 2004年9月に功前理事長が死去し[105]、宏之理事長ら遺族3人を相続人とした[106]。
- ^ 2005年7月に3人の名義の簡易保険や有価証券など計約2億1000万円を相続財産から除外し、遺産総額を不動産中心に約5億6800万円、相続税を約7000万円と申告した[104]。同国税局が2007年2月から税務調査し、宏之理事長名義の預貯金6口座、計約2600万円について「幼少時から預けられている被相続人が形成した遺産」「被相続人の生前に贈与を受け、贈与税も納めており死亡時には私たちの資産になっていた」と反論したが、同国税局は「贈与の証拠がなく相続財産に当たる」「被相続人の資産を宏之理事長名義に分散することで遺産を圧縮した」などと判断し、重加算税の対象とした[105]。また約2億1000万円のうち生命保険の掛け金や別の預貯金[106]などの約1億8400万円の申告漏れも指摘した[105]。
- ^ 昼休み終了後の5限目開始直後に火災報知機が作動し[109]、生徒約830人と教員約70人が一時校庭に避難したものの傷病者はなく[107]、約1時間20分後に[108]消し止められた[110]。部室は別棟にある鉄筋平屋建てで[108][111]、約120平方メートルのうち3クラブの部室約40平方メートルが焼けた[110]。火元のバスケットボール部の部室は直前まで部員が使用しており[107]、長田署によると室内には火の気はなく、施錠されていた[108]。兵庫県弁護士会の照会への回答によると、学校側は火元から吸い殻が発見されたとしているが、男子生徒(後述の放火を疑われた生徒)は原因は不明であったと主張している[112]。学校公式サイト上でも火災発生の後日に「関係機関と連携、協力しながら出火原因を明らかにしたい」と触れているが[109]、2013年3月19日時点においても原因については公式サイト上で告知[113]、報道されていない。
- ^ 学校側は鎮火後のゴミ箱からマッチが発見されたとしているが、男子生徒含む所属運動部員に対する事情聴取によれば、部員による当日の喫煙はなく、部員に対する直後の持ち物検査によってもタバコやマッチなど具体的な出火原因となりうる物品は発見されていない[112]。兵庫県弁護士会による照会が行われた時点では鎮火後のゴミ箱から発見されたマッチもゴミ箱と共に処分されており、男子生徒による喫煙行為によって小火騒ぎが発生したと認めるに足りる証拠は存在していない[112]。照会への回答においても学校側は「本件に関し、男子生徒について何らの事実も認定していない」としている[112]。
- ^ 4月、男子生徒は所属していた運動部の寮で喫煙したことが発覚し、学内謹慎処分1週間、退寮処分、部活謹慎3ヶ月の処分を受けていた[112]。また7月に行った教諭(7月27日に同席していた教諭の一人。以下、他の注釈も含めて兵庫県弁護士会のPDFに倣い、C教諭とする)による聴取では、男子生徒は謹慎期間中を含む4月以降も喫煙していたことを自認した[117]。学校側は三宮センター街においても喫煙していたことを男子生徒は自認したとしているが、自主退学を迫った時を含め、男子生徒は一貫して否認している[117]。
- ^ 小火騒ぎの原因調査のため、教諭が部員に対し事情聴取を行った過程において、男子生徒が7月22日に喫煙していたことが発覚[112]。男子生徒はこの事実を認め、所属運動部を退部処分となり、自宅謹慎を指示された[118]。
- ^ 計2回の不審火について検証に基づかない推論で男子生徒を犯人と決めつけると共に「アホ」「ドアホ」「頭いかれてんの」[121]「ダボ」「お前は放火魔」等の暴言を浴びせた[122]。
- ^ 生徒指導部長は放火犯と決めつける一方、退学届には「一身上の都合」と記載するように指示[122]。このことについて同席した教諭の一人(男子生徒の所属する運動部の顧問。以下、他の注釈も含めて兵庫県弁護士会のPDFに倣い、B教諭とする)は「自主退学やったら次もあるやろって指導部長は歩み寄ってくれとう」「それに関して恩義はないんか」などと言い、男子生徒に「歩み寄り」であると説明した[122]。また寮での喫煙発覚の際に、B教諭は男子生徒に「喫煙行為が繰り返されれば退学処分になる」と厳重注意、及び生徒指導部長が「再度喫煙行為があれば自主退学になる(のでもうしない)」と約束させたとしているが、これについて男子生徒は「次回喫煙行為があれば退学との注意は受けていない」と述べている[112]。
- ^ 男子生徒は生徒指導部長から27日に呼び出しを受けていることを他の部員に話したところ「日頃より生徒(本件に関わっている男子生徒に限らず)を罵倒する生徒指導部長を警戒し、録音してはどうか」と助言されたため、父親から語学学習用のICレコーダーを借用の上、ポケットに忍ばせた[121]。その結果、生徒指導部長の侮辱的言辞、他二名の教諭(B教諭とC教諭)の追従する発言[123]が録音された[121]。
- ^ 阪本校長は男子生徒の父親に「退学と言われたので過敏に反応しているのでないか」「行きすぎたところがあったなら担当教員に注意をしておく」と述べるのみだった[123]。
- ^ 男子生徒は「放火はしていないが、喫煙したのは事実」と主張した[119]。
- ^ 兵庫県弁護士会は「証拠もないまま火災の犯人と決めつけている。恫喝行為で生徒の自尊心を傷つけており、教師という優越的地位を利用して、教育機関として許される懲戒行為の範囲を明らかに逸脱し、人格権を侵害している[116]」「反論の機会を抑圧するなど学習権の観点から[125]適性手続に違反している[126]」「教諭らに対する監督義務違反[123]」などとした[114]。同会の調査に対し、育英高等学校は「粗野な言葉で傷つけた」と事実関係を認めている[120]。また同会に対して生徒指導部長は「傷つけたのであれば、申し訳ない」と述べ謝罪している[127]。育英高等学校は2013年4月1日より敷地内全面禁煙とした[113]。
- ^ 男性専任講師は4月に国語科の講師として一年間の契約で採用された[128]。一年生のクラス担任も務め、9月から一年生の教材購入費や模試の受験費の支出などを担う会計担当者として[129]通帳を扱える立場だった[128]。いずれも男性専任講師名義で[131]使途不明のまま無断に出金した[128]。
- ^ 不審に思った育英高等学校が12月に男性専任講師に「通帳を持ってこい」と指示したところ男性専任講師が拒否し[132]、そのことについて男性専任講師に確認したところ出金を認めた[128]。男性専任講師は12月末に「一身上の都合」を理由に退職願を提出して東京に引っ越した[133]。
- ^ 育英高等学校は2023年4月に被害届を出した[134]。逮捕時は東京都中野区弥生町在住[129]。男性専任講師は自分のクレジットカードに入金した[132]。
- ^ 男性元専任講師は「競輪・競馬などのギャンブルに使った」と容疑を認めた[130]。
出典
参考文献
弁護士会による意見書
- 林晃史; 佐藤功行 (2013年3月19日). “兵弁総24発第463号”. 兵庫県弁護士会. 2019年10月22日時点のオリジナルよりアーカイブ。2024年8月14日閲覧。
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