鈴木 富士彌(すずき ふじや、1882年11月26日 - 1946年1月12日)は、大正・昭和期の日本の弁護士・政治家。名前は鈴木 富士弥とも表記される[1]。
人物
大分県出身。最初は三塚姓を名乗っていたが、後に鈴木家の養子となる。1906年に東京帝国大学法科大学を卒業後、欧米視察や実業界を経て1915年に弁護士業を開業する。1917年の第13回衆議院議員総選挙に東京府第5区(当時)から立候補して当選し、以後連続して6期務めた。憲政会→立憲民政党に所属して加藤高明内閣・第1次若槻内閣において内務参与官、濱口内閣においては内閣書記官長を務め、また民政党時代には政務調査会長(1929年)や党総務(1933年)も務めた。永井柳太郎・中野正剛・山道襄一とともに安達謙蔵直系の党人派4名の雄弁家「安達の四天王」の1人としても知られた[2]。衆議院議員引退後の1940年には鎌倉市長に就任している。
著名な弁護活動として、日蔭茶屋事件での神近市子の弁護をしている[3]。
栄典
参考文献
- 『コンサイス日本人名事典 第5版』三省堂、2009年。
- 『現代日本朝日人物事典』朝日新聞社、1990年。
脚注・出典