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菊池市隈府にあった菊池氏の居城(菊池本城)については「菊池城」をご覧ください。 |
緑色は文献に見える山城、青色は見えない山城(神籠石式山城)。
鞠智城(きくちじょう[1]/くくちのき[注 1])は、熊本県の山鹿市と菊池市にまたがる[注 2]台地状の丘陵に築かれた[2]、日本の古代山城。城跡は、2004年(平成16年)2月27日、国指定の史跡「鞠智城跡」に指定されている[1]。
概要
『続日本紀』に、「大宰府をして大野(おおの)、基肄(きい)、鞠智(くくち)の三城(みつのき)を繕治せしむ」と、記載された城である[注 1]。
鞠智城は、『続日本紀』に記載された文武天皇2年(698年)の城の修復記事が初見であり、築城年は不明である。しかし、発掘調査では少なくとも7世紀後半 - 10世紀中頃まで約300年、存続したことが判明している。そのため、白村江の戦いで、唐・新羅連合軍に大敗した後、大和朝廷が倭(日本)の防衛のために築いた水城・大野城・基肄城と[3]、ほぼ同時期に築かれたと考えられている[4]。また、八角形建物跡や銅造菩薩立像の出土などは、百済からの亡命者が関与したことが窺える[5]。
鞠智城は、標高約90 - 171メートルの米原台地に所在する。城壁の周長は、自然地形の崖を含めて約3.5キロメートル、城の面積は約55ヘクタールである[4]。直線距離で大宰府の南、約62キロメートルに位置し、古代山城では最も南にある城である。また、有明海に注ぐ菊池川の河口の東北東、約30キロメートルの内陸部で、流域は肥沃な平野が広がる。城の南側は、古代官道が推定されている交通路の要衝に位置する[6]。
発掘調査では、国内の古代山城で唯一の八角形建物跡2棟(2棟×2時期)・総計72棟の建物跡[注 3][6][7]・3か所の城門跡・土塁・水門・貯水池などの遺構が確認されている。また、貯水池跡では、付札木簡と百済系の銅造菩薩立像が出土している[4]。
鞠智城の築城当初は、大宰府と連動した軍事施設で、大野城・基肄城などとともに北部九州の防衛拠点であり[4]、兵站基地や[8]有明海からの侵攻に対する構え[9]などが考えられている。そして、修復期以降は、軍事施設に加えて、食料の備蓄施設の拠点[4]、南九州支配の拠点[10]などの役割・機能などが考えられている。
鞠智城は、7世紀末の律令制の導入時に、役所機能のある肥後北部の拠点に改修されたと考えられている。発掘調査で大宰府と連動した施設の改修と変遷が確認された特異な城跡である。また、他の古代山城は国府の近くに所在するが、鞠智城は城自体が役所機能を有するなど、特殊な古代山城といえる。そして、8世紀後半以降は、倉庫が立ち並ぶ物資貯蔵機能に特化した施設に変化して終焉を迎えたとされている[11]。
関連の歴史
『日本書紀』に記載された白村江の戦いと、防御施設の設置記事は下記の通り。
調査・研究
遺構に関する内容は、概要に記述の通り。
- 考古学的調査は、坂本経堯の1937年(昭和12年)の踏査研究、「鞠智城址に擬せられる米原遺跡に就いて」の発表を嚆矢とする[10]。
- 発掘調査は、1967年(昭和42年)に第1次調査が行われ、2010年(平成22年)までに32次の調査が実施された。調査成果は、 『鞠智城跡 Ⅱー鞠智城跡第8~32次調査報告ー』 熊本県教育委員会 編集/発行 2012年、で報告されている[4]。
- 九州管内の城も、瀬戸内海沿岸の城も、その配置・構造から一体的・計画的に築かれたもので、七世紀後半の日本が取り組んだ一大国家事業である[8]。
- 1898年(明治31年)、高良山の列石遺構が学会に紹介され、「神籠石」の名称が定着した[注 4]。そして、その後の発掘調査で城郭遺構とされた。一方、文献に記載のある鞠智城などは、「古代山城」の名称で分類された。この二分類による論議が長く続いてきた。しかし、近年では、学史的な用語として扱われ[注 5]、全ての山城を共通の事項で検討することが定着してきた。また、日本の古代山城の築造目的は、対外的な防備の軍事機能のみで語られてきたが、地方統治の拠点的な役割も認識されるようになってきた[12]。
その他
- 鞠智城跡は「歴史公園鞠智城・温故創生館」として整備され、八角形鼓楼・米倉・兵舎・板倉などが復元され、一般公開されている。
- 2011年、第2回 古代山城サミットが鞠智城(山鹿市・菊池市)で開催された。また、鞠智城イメージキャラクター「ころう君」ほか、「人々に愛される鞠智城」を目指して、種々の施策が展開されている[4]。
- 熊本県は、「百年の礎を築く」との大テーマを設定し、「くまもとの歴史・文化の磨き上げ、継承」を掲げる。鞠智城の調査研究・保存・活用に取り組み、2015年までに「鞠智城シンポジウム」を、東京・大阪・福岡・熊本で計8回開催する等、調査成果を活かした種々の活動を展開している[4]。
ギャラリー
交通アクセス
脚注
注釈
- ^ a b 『続日本紀』の文武天皇 二年 五月の条に、「令 大宰府 繕治 大野、基肄、鞠智 三城」と、記載する。
- ^ 史跡指定地の九割が山鹿市、残りの一割が菊池市に属する。
- ^ 鞠智城は建物群の変化から、300年の存続期間の変化を五期に区分できる。Ⅰ期は掘立柱建物の出現、Ⅱ期は管理棟的建物と八角形建物の出現、Ⅲ期は礎石建物の出現、Ⅳ期は管理棟的建物群の消失と不動倉の焼失、Ⅴ期は大型の倉庫を建設した後に、廃城を迎える。
- ^ 歴史学会・考古学会における大論争があった(宮小路賀宏・亀田修一「神籠石論争」『論争・学説 日本の考古学』第6巻、雄山閣出版、1987年)。
- ^ 1995年(平成7年)、文化財保護法の指定基準の改正にともない「神籠石」は削除され、「城跡」が追加された。
出典
- ^ a b 鞠智城跡 - 国指定文化財等データベース(文化庁)
- ^ 電子国土基本図(地図情報)ー国土地理院
- ^ 森公章 著 『「白村江」以後 国家危機と東アジア外交』、講談社、1998年、158-173頁。
- ^ a b c d e f g h 西住欣一郎 「鞠智城跡の調査研究の現状」『月刊 文化財』631号、第一法規、2016年、41-42頁。
- ^ 吉村武彦 「律令制国家の成立と鞠智城」『律令制国家の確立と鞠智城』、熊本県教育委員会、2015年、25頁。
- ^ a b 矢野裕介 「最新調査成果報告」『ここまでわかった鞠智城』、熊本県教育委員会、2012年、12-16頁。
- ^ “鞠智城(熊本県山鹿市) 対「熊襲」の城が変遷?”. 産経新聞 (2015年9月8日). 2018年8月26日閲覧。
- ^ a b 狩野久 「西日本の古代山城が語るもの」『岩波講座 日本歴史』第21巻 月報21、岩波書店、2015年、2-3頁。
- ^ 向井一雄 「韓国古代城郭からみた鞠智城」『古代山城の成立と鞠智城』、熊本県教育委員会、2013年、137頁。
- ^ a b 向井一雄 「鞠智城跡」『東アジア考古学辞典』、東京堂出版、2007年、126頁。
- ^ 木村龍生 「鞠智城の役割について」『季刊 考古学』136号、雄山閣、2016年、84頁
- ^ 赤司善彦 「古代山城研究の現状と課題」『月刊 文化財』631号、第一法規、2016年、10-13頁。
参考文献
関連項目
外部リンク
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朝鮮式山城 (天智紀山城) |
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中国式山城 |
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神籠石系山城 (史書非記載城) |
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関連項目 | |
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