麻布狸穴町(あざぶまみあなちょう)は、東京都港区の町名。麻布地区総合支所管内に当たり、住居表示未実施区域[6]。郵便番号は106-0042(芝局管区)[3]。
地理
外苑東通りより古川(渋谷川)の谷へ向かう斜面に位置する町であり、傾斜部の大部分はマンションや住宅などが並ぶ住宅地となっている。北から東に掛けて麻布台、南で東麻布、西で麻布永坂町と隣接する。かつては町域内にソ連大使館(現在のロシア大使館)があったが、現在では住居表示の実施に伴う町名変更によって、ロシア大使館と東京アメリカンクラブなどがある後方区域は、麻布狸穴町から麻布台二丁目へ変更されている。
麻布台二丁目との境界、外苑東通りからロシア大使館脇を南に下る坂には狸穴坂の名が付いている。麻布永坂町とともに港区内に2か所だけ残る住居表示未実施区域である[6]。
歴史
かつては豊島郡 (武蔵国)麻布領の飯倉村(のち飯倉町)の一部だったが、江戸時代以降、少しずつ町並みとなり飯倉狸穴町というようになった[7]。谷あいの土地で古くより木立も繁り、魔魅(アナグマ)も住んでいそうな場所であった[7]。この一帯の高台には江戸時代には武家屋敷が並び、低地には庶民の町屋があった[8]。屋敷街は明治時代末期までは瀟洒な住宅街として静けさが保たれていた[6]。
また、かつての麻布狸穴町は現在より町域が広く[9]、当時の狸穴町には1874年(明治7年)に海軍により観象台が設置され、その跡地は現在日本経緯度原点(現:麻布台2丁目)が置かれている[10]。また、満鉄(南満州鉄道)の東京支社は狸穴(現在の麻布台二丁目1番2号)にあった。
狸穴の坂下にはかつて、「狸蕎麦(一名作兵衛蕎麦)」という名代の蕎麦屋があり、色は黒いが味は確かであると評判であった[11]。起こりは、徳川の大奥を荒らしまわったという狸穴の古狸を内田正九郎という侍が討ち取ったが、その狸の霊を蕎麦屋の作兵衛が屋敷内に祀ったことから「狸蕎麦」の名がついたものだったという[11]。昭和時代、狸穴の坂上通り(外苑東通り)に面して南側には「狸蕎麦」の暖簾で営業している蕎麦屋があったが、作兵衛蕎麦との関係は不明であった[12]。坂上通り(外苑東通り)に面して南側には金沢の「芝寿し」の東京売店、みずほ銀行店舗などがあったが現在はない。
冷戦時代以前、「狸穴」は「ソ連大使館」(現:麻布台2丁目)の異名としても通用していた[13]。
地名の由来
狸穴の地名の由来については諸説あるが、この地に生息していた猯(まみ=アナグマ)に因んで『まみあな』という地名がついたのだが、後に狸の字と混同されてしまい、狸穴(まみあな)と書かれるようになったとする説が有力である。
長い坂下に雌狸の棲む大きな洞穴があったのが地名の起こりとされる[6]。1644年(寛永21年)には、将軍・徳川家光がこの穴の視察を命じたという話も残っている[6]。
残された旧町名
住居表示に関する法律が成立した1962年(昭和37年)以降、港区においても新たな街画が設定され、それまでの歴史ある町名が次々と消滅した。1978年(昭和53年)には、町名変更の実施率が97.4%に達していた[6]。この際に最後まで残ったのが麻布狸穴町と麻布永坂町であり、これら2町の名称は現在まで存続することとなった[6]。
これは、この町の住民であった世界経済調査会理事長・木内信胤が「歴史的にも古く、価値のある町名はきちんと後世まで残すべき」と、住居表示の施行を強行する行政に対して異を唱え、麻布永坂町に居を構える脚本家・松山善三が中心となって反対運動を行い、同じく同町のブリヂストン創業者・石橋正二郎らも改称に対して強固に異を唱えた結果である[6]。
沿革
世帯数と人口
2019年(令和元年)9月1日現在の世帯数と人口は以下の通りである[2]。
小・中学校の学区
区立小・中学校に通う場合、学区は以下の通りとなる[14]。
施設
舞台となっている映画
舞台となっている楽曲
- 当地を舞台に展開される大人のアヴァンチュールの歌[15]。
脚注
関連項目
外部リンク