六本木(ろっぽんぎ)は、東京都港区の町名。
六本木ヒルズをはじめとした繁華街である。また、赤坂・虎ノ門の付近はオフィスビルが建つビジネス街にもなっている。現行行政区画は六本木一丁目から六本木七丁目。郵便番号は106-0032(芝局管区)[3]。
概要
港区北部に位置し、旧麻布区にあたるエリアである。区役所の麻布地区総合支所の管轄であり[6]、「麻布」を冠さないが麻布エリアに含まれる。北で南青山、東で赤坂、南東で虎ノ門、南で麻布台・麻布永坂町・麻布十番・南西で元麻布、西で西麻布と接する。なお、東麻布とはわずかに接していない。旧:麻布区に属し、六本木一丁目、六本木二丁目、六本木四丁目、六本木五丁目の高台地域は番町、市谷船河原町、市谷砂土原町、そして赤坂の高台地区と並び特に六本木四丁目のフランシスカン・チャペルセンター周辺と六本木五丁目の鳥居坂周辺は1990年代前半頃までは独特の佇まいを残していた。
現在は、六本木通りと外苑東通りが交わる六本木交差点を中心に繁華街・歓楽街というイメージが強い傾向にある。2000年代に再開発により六本木ヒルズや東京ミッドタウン(住所上は赤坂)といったオフィス併設の大規模複合商業ビルが誕生した。六本木ヒルズや泉ガーデンタワーといったオフィスビルや新興IT企業の本社[7]、グランドハイアット東京などの高級ホテル、高級タワーマンション、駐日大使館も多くあり、多面的・国際的な顔を見せている。六本木ヒルズ内にはテレビ朝日(テレ朝)の本社、住友不動産六本木グランドタワー内にはテレビ東京(テレ東)本社も位置している。また、国立新美術館、森美術館・森アーツセンターギャラリー(六本木ヒルズ)、サントリー美術館(東京ミッドタウン)などの美術館が多く集積し、都内では上野(台東区)に次ぐ文化・芸術の街という側面もある。
歴史
現在の六本木の町域は大半が武家地だった区域だが、江戸時代の「六本木町」は門前町で、現在の六本木交差点付近の狭い範囲を指していた。明治以降の「六本木町」は、寺院や大久保加賀守(小田原藩主)家の下屋敷跡などを含む範囲になった。武家屋敷跡がお屋敷町になった。湧き水や地下水に恵まれ金魚の養殖が盛んであった。
六本木近辺には日本軍の軍事施設が置かれ、兵隊の町でもあった。龍土町(現:六本木七丁目)には1936年(昭和11年)の二・二六事件にも参加者を出した歩兵第三連隊があり、隣接する赤坂区檜町(現:赤坂九丁目)には歩兵第一連隊があった。
1925年(大正14年)6月6日、赤坂溜池と六本木間で市電が開通。交通の便が良くなった[8]。
1938年(昭和13年)6月30日、集中豪雨により麻布今井町(現在の六本木四丁目)の三井邸から麻布谷町(現在の六本木二丁目)にかけてがけ崩れが発生。20余戸が押しつぶされて死者23人、重軽傷者20数人[9]。
六本木は、明治時代-昭和初期にかけて麻布区に属し、戦後麻布区から港区になったが、住居表示実施前の六本木五丁目と六本木六丁目、六本木七丁目の一部は「麻布六本木町」という麻布の冠称を持った町名であった。行政区分でも港区の地区総合支所のほか警察署・消防署・郵便局・税務署の管轄も、六本木は麻布管内となっている。1965年頃の六本木の地価は坪40万円で、麹町に次いで高かった[10]。
1967年7月1日に、この六本木町のほか、龍土町・三河台町・今井町・材木町・鳥居坂町・東鳥居坂町・永坂町(約半分)・飯倉片町(の一部)・北日ヶ窪町など麻布地区北部一帯の住居表示が実施され、六本木一丁目から六本木七丁目までの7か町に整理再編された。
地名の由来
などがある。
沿革
町名の変遷
実施後
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実施年月日
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実施前(特記なければ、各町名ともその一部)
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六本木一丁目
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1967年7月1日
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赤坂榎坂町(全域)、赤坂霊南坂町(全域)、麻布市兵衛町一丁目、麻布市兵衛町二丁目、麻布箪笥町、麻布谷町
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六本木二丁目
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麻布箪笥町、麻布谷町、麻布今井町
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六本木三丁目
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麻布仲ノ町(全域)、麻布市兵衛町二丁目、麻布箪笥町、麻布谷町、麻布今井町、麻布三河台町
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六本木四丁目
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麻布市兵衛町二丁目、麻布今井町、麻布三河台町
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六本木五丁目
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麻布鳥居坂町(全域)、麻布東鳥居坂町(全域)、麻布飯倉片町、麻布永坂町、麻布南日ケ窪町、麻布北日ケ窪町、麻布六本木町
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六本木六丁目
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麻布桜田町(全域)、麻布宮村町(全域)、麻布南日ケ窪町、麻布北日ケ窪町、麻布材木町、麻布六本木町、麻布霞町
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1978年9月1日
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麻布南日ケ窪町(全域)
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六本木七丁目
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1967年7月1日
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麻布龍土町(全域)、麻布新龍土町(全域)、赤坂青山南町一丁目(全域)、麻布材木町、麻布六本木町、麻布霞町
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繁華街
六本木近辺の軍事施設は太平洋戦争中の空襲で焼失。終戦に伴い、日本の占領にあたった連合国軍に接収される。そのため、外国人向けの商店や飲食店が少しずつできるようになる。また、1959年にはNET(日本教育テレビ、現:テレビ朝日)[注釈 1]が開局し、この頃に六本木族が登場する。
1960年代に入ると日本料理の瀬里奈をはじめとして中華料理の香妃園や魯山、イタリア料理のアントニオなどが芸能人やファッションモデル、来日した海外のスターらが出入りする店として徐々に知られるようになった。1960年代後半からは高台以外の住宅街へ押し入るように外国人や日本人向けの飲食店、若者向けのサパークラブ、ゴーゴークラブなどのオープンが続き、結果として住宅街から繁華街へと姿を変え、1975年(昭和50年)以降は赤坂に代わる人気プレイスポットとして有名になっていく。
1980年代後半からのバブル経済期には六本木スクエアビルを中心としてディスコだけで数十軒が立ち並び、大衆化が進むとともに活況を呈したが、その後のバブル崩壊とともに、1993年(平成5年)以降は多くの店が閉店し、カラオケ店やキャバクラなどに衣替えした。
現在、平日は昼夜を問わずサラリーマンやOLの姿が目立ちオフィス街としてのイメージも強くなった他、六本木一丁目にはスペイン大使館、スウェーデン大使館などの外国公館や、六本木七丁目の在日米軍施設(ヘリポート、星条旗新聞社ほか)などもあり外国人の姿も目立つ。
週末の金曜日・土曜日の夜になるとバーやクラブ、キャバクラなどが林立する繁華街の様相を呈する。クラブ目当ての若者や外国人のほか、キャバクラ嬢や外国人の客引きが街頭に出ている姿が見られる。また、傷害事件やカジノ賭博・麻薬密売等の違法行為も存在し、時折検挙等により明るみに出ることがある[13]。一例として、新宿の歌舞伎町や六本木周辺に店を構える西アフリカ出身のナイジェリア人グループらが大掛かりで、泥酔客から暴利を貪る問題が見られる[14]。さらに、新宿歌舞伎町などと同様に暴力団や非行少年グループのOB団体、外国人マフィアといった犯罪グループ同士の抗争も垣間見られる[15]。
これらの影響で、六本木地区はアメリカ国務省、イギリス大使館、オーストラリア大使館によって、旅行者向けの『危険地域』として警告されている[16]。
2012年、東京都は六本木三丁目から七丁目を都迷惑防止条例に基づき、客引きやスカウトのみならず、それらを行うために待機する行為なども禁止する区域に指定した[17]。
さらに2019年には同一丁目から七丁目を暴力団排除条例に基づき、暴力団排除特別強化地域に指定[18]。地域内では暴力団と飲食店等との間で、みかじめ料のやりとりや便宜供与などが禁止され、違反者は支払った側であっても懲役1年以下または罰金50万円以下の罰則が科されることとなった[19]。
六本木ヒルズ
江戸時代に、麻布日ヶ窪(現在の六本木六丁目)に長府毛利家(長州藩支藩の長門府中藩)の屋敷が置かれた。長門府中藩(長府藩共。現:山口県下関市の一部)出身の乃木希典もこの地で生まれている。1952年に、ニッカウヰスキー東京工場が建てられた。1959年隣接地にNETテレビ(日本教育テレビ・現:テレビ朝日)が開局。局舎を逐次拡張し、1977年には前述のニッカウヰスキー工場跡地を取得した。2003年4月に「六本木ヒルズ」がオープンした。この再開発(通称:六六再開発)は、1980年代にスタートしたプロジェクトであり、オープンまでに実に約20年の歳月を要した。
世帯数と人口
2019年(令和元年)9月1日現在の世帯数と人口は以下の通りである[2]。
丁目 |
世帯数 |
人口
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六本木一丁目
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1,291世帯
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2,485人
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六本木二丁目
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615世帯
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728人
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六本木三丁目
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1,920世帯
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2,817人
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六本木四丁目
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728世帯
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1,344人
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六本木五丁目
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1,216世帯
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2,158人
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六本木六丁目
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914世帯
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1,739人
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六本木七丁目
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1,453世帯
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2,146人
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計
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13,530世帯
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13,417人
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小・中学校の学区
区立小・中学校に通う場合、学区は以下の通りとなる[20]。
交通
鉄道
路線バス
道路
施設
六本木一丁目
六本木二丁目
六本木三丁目
六本木四丁目
六本木五丁目
六本木六丁目
六本木七丁目
六本木をテーマとした作品
楽曲
ドラマ
映画
出身・ゆかりのある人物
脚注
注釈
- ^ テレビ朝日本社の所在地は、住居表示の実施前は「麻布材木町55番地」だったが、その当時から対外的には「東京都港区六本木」としてアピールしていた。住居表示の実施後は名実ともに六本木に所在している。
出典
関連項目
外部リンク
ウィキメディア・コモンズには、
六本木に関連するメディアがあります。