1948-1949シーズンのBAAは、アメリカ合衆国男子プロバスケットボールリーグBAAの3回目のシーズンである。BAA(Basketball Association of America)とは1946年6月6日に設立された全米プロバスケットボールリーグであり、現在のNBAの前身に当たる。BAAはシーズン終了後にNBAと名称を変更するため、このシーズンがBAA最後のシーズンとなる。シーズンは1948年11月1日に始まり、1949年4月13日に全日程が終了した。
シーズン前
ドラフト
ドラフトではアンディ・トンコヴィッチがプロビデンス・スチームローラーズから全体1位指名を受けた。またドルフ・シェイズ、ボビー・ヴァンツァーが指名を受けている。ドラフト以外ではハリー・ギャラティン、ジャック・コールマン、ビル・ガボアがNBA入りしている。
ジョージ・マイカンの登場
BAAのライバルリーグ、NBL(National Basketball League)からミネアポリス・レイカーズ(後のロサンゼルス・レイカーズ)、フォートウェイン・ピストンズ(後のデトロイト・ピストンズ)、インディアナポリス・ジェッツ、ロチェスター・ロイヤルズ(後のサクラメント・キングス)の4チームが加入し、チーム数は12に増加した。特にNBLの前季チャンピオンチームであるミネアポリス・レイカーズの加入は大きかった。当時のレイカーズにはBAA最初のスーパースターであるジョージ・マイカンが所属していたのである。
前季48試合に減らされたレギュラーシーズンは60試合に戻された。各デビジョンから上位4チームがプレーオフに進出できる。
シーズン
イースタン・デビジョン
ウエスタン・デビジョン
スタッツリーダー
※1969-70シーズン以前はアベレージよりも通算でスタッツリーダーが決められていた。
各賞
シーズン概要
- 前季リーグ全体の1試合平均得点は72.7得点だったが、このシーズンには80.0得点と大きく跳ね上がった。必然的に選手個人のアベレージも上昇し、このシーズンの得点王はミネアポリス・レイカーズのジョージ・マイカンとフィラデルフィア・ウォリアーズのジョー・ファルクスが争い、共に平均25得点を突破するというレベルの高い得点王レースとなった。結果はマイカンが2位のファルクスに286点差をつける通算1689得点を記録(平均28.3得点)し、得点王に輝いた。マイカンはBAAに来る前にはNBLとさらにPBLA(Professional Basketball League of America)の二つのリーグでも得点王に輝いており、計3つのリーグで得点王のタイトルを獲得したことになる。マイカンの存在があまりに圧倒的だったため、後にリーグはペイントエリアが拡大せざるを得なかった。
- ウエスタン・デビジョンではNBLから新たに加入した2チームが上位を占めた。
- リーグ全体のフィールドゴール成功率、平均得点は前季を大幅に上回った。これは新たに加入したミネアポリス・レイカーズとロチェスター・ロイヤルズによるものが大きい。フィールドゴール成功率は初の30%越えとなる32.7%、平均得点はこちらも初の80得点越えとなる80.0得点だった。
プレーオフ・ファイナル
プレーオフ出場権を与えられるチームが8チームとなったため、変則的なトーナメント方式が改められ、全チームが1回戦(デビジョン準決勝)から参加する方式に変更された。デビジョン決勝までは3戦2勝制であり、ファイナルのみが7戦4勝制となった。
レイカーズ王朝時代の到来
ジョージ・マイカン擁するミネアポリス・レイカーズが圧倒的な力を見せ付けて優勝する。ワシントン・キャピトルズはマイカンにボーンズ・マッキニーを当てるもまるで歯が立たなかった。この優勝はレイカーズ王朝時代の到来を告げると共に、優秀なビッグマンの獲得こそが成功の道であることを知らしめた。
外部リンク