人民戦線(じんみんせんせん、スペイン語:Frente Popular)は、1936年から1939年までスペインにて存続した社会主義連合政権。首班はマヌエル・アサーニャ。
経緯
1931年4月の「1931年4月12日自治体選挙(スペイン語版)」により共和派が勝利、ブルボン朝のアルフォンソ13世が退位すると、共和派、農民・労働者・知識人は当時のソ連の繁栄の影響を受け社会主義政権発足を目指し始めた。
当時スペイン国内に散在していた共産党をはじめとする社会主義政党をまとめ上げ、1936年2月16日の総選挙(スペイン語版)で右派を抑えて勝利[1]、左翼共和党のマヌエル・アサーニャを首班とする挙国一致内閣を成立させた。これは、フランスのレオン・ブルム政権とともに、ソ連がコミンテルンを通じて各国の共産党に社会主義勢力や自由主義勢力との連合政権樹立を指示した人民戦線戦術の成功例であった。
これに反対する軍部・右翼・地主・旧貴族・カトリック教会などの保守階級はエミリオ・モラ(スペイン語版)将軍を首謀者として当時ポルトガルに亡命していたホセ・サンフルホ(スペイン語版)将軍を推しナショナリスト軍(英語版)を結成、1936年7月18日、モロッコにて人民戦線政府に対し反乱を起こす。これを受け、カナリア諸島に左遷されていたフランシスコ・フランコ将軍はメリリャに革命本部を置き軍を掌握し、スペイン本土各地でも陰謀に加わった将校が蜂起、またたく間にスペイン全土に反乱は拡大した。
結局首都マドリードやバルセロナなどでの蜂起の鎮圧には成功したものの、ナバーラやセビリヤ、ガリシア、アフリカの植民地は反乱軍に抑えられてしまい、事態はクーデターから内戦に発展してしまった。こうしてスペイン内戦が開始された。
反乱が発生した翌7月19日、左翼共和党のサンティアゴ・カサーレス・キローガ首相が辞任。時局収拾を図るために共和連合のディエゴ・マルティネス・バリオが首相に就任したが、24時間も政権を維持することができなかった。その日のうちに再び左翼共和党からホセ・ヒラル・ペレイラが首相に立ち組閣を行った[2]が混乱を収めることはできなかった。
同年8月中旬には、全土の大半が反乱軍の勢力下となり、首都マドリードも包囲された[3]。同年11月7日、反乱軍が市内に突入して市街戦になり、政府機能がバレンシアに移される[4]。この間、同年9月4日にバスク地方のイルン陥落を期にホセ・ヒラル・ペレイラ内閣が総辞職、スペイン社会労働党からフランシスコ・ラルゴ・カバジェーロが首班となり第四次人民戦線内閣が成立した[5]。
ソビエト連邦をはじめ、世界各国の社会主義政党、共和派、反ファシズム勢、国際旅団の援助を受け人民戦線はしばらくは持ちこたえたものの、ブルム政権が短命に終わった後のフランスや、人民戦線政府内で勢力を拡大しつつあったスペイン共産党を嫌ったイギリスやアメリカ合衆国は不介入を決定した。一方、ファシズム政権の誕生を期待したドイツ、イタリアなどのファシズム国家の大量の軍事支援を受けたナショナリスト軍は圧倒的軍事力で人民戦線を壊滅に追い込む。
その後、拠点の一つであったカタルーニャ地方バルセロナが陥落したことで1939年2月に人民戦線政府は国外に亡命、4月にナショナリスト軍は首都のマドリードを攻め落とし内戦は終結した。
人民戦線の敗因は社会主義政党間の不和や寄せ集めの軍備[注釈 1]で対抗したことなどで、その後に多くの課題を残した。
政党
脚注
- ^ 総選挙で人民戦線派が勝利『東京朝日新聞』昭和11年2月18日(『昭和ニュース事典第5巻 昭和10年-昭和11年』本編p306 昭和ニュース事典編纂委員会 毎日コミュニケーションズ刊 1994年)
- ^ スペイン領モロッコで反乱発生『大阪毎日新聞』昭和11年7月19日(『昭和ニュース事典第5巻 昭和10年-昭和11年』本編p306)
- ^ 全土の大半が反乱軍の手に帰す『大阪毎日新聞』昭和11年8月12日夕刊(『昭和ニュース事典第5巻 昭和10年-昭和11年』本編p307)
- ^ 反乱軍がマドリッドに突入『大阪毎日新聞』昭和11年11月8日(『昭和ニュース事典第5巻 昭和10年-昭和11年』本編p308)
- ^ 北部要衝イルン陥落、ヒラール内閣辞職『大阪毎日新聞』昭和11年9月6日(『昭和ニュース事典第5巻 昭和10年-昭和11年』本編p306)
- ^ ボーイング社がスペイン政府への売り込みのためにアメリカから回航し、不採用となった後にバラハスに留め置かれたままになっていたモデル 281の見本機さえもが徴用された。