霊山寺(りょうぜんじ)は徳島県鳴門市にある高野山真言宗の寺院。山号は竺和山(じくわさん)、院号は一乗院(いちじょういん)と号す。本尊は釈迦如来。四国八十八箇所第一番札所。とくしま88景に選定されている。日本遺産の第一弾として2015年4月24日に選ばれた18件(15番)のうちの一つとして「四国遍路」-回遊型巡礼路と独自の巡礼文化- が選ばれ、当寺は四国八十八箇所の88の寺院と阿波遍路道・土佐遍路道・伊予遍路道・讃岐遍路道で構成されたその文化財の一つである。当札所以降2番札所から88番札所まで同文につき、この日本遺産に関する記述を省略する。
- 本尊真言:のうまくさんまんだ ぼだなん ばく
- ご詠歌:霊山(りょうぜん)の 釈迦のみ前にめぐりきて よろずの罪も 消えうせにけり
歴史
寺伝によれば奈良時代、天平年間(729年 – 749年)に聖武天皇の勅願により、行基によって開創された。
弘仁6年(815年)に空海(弘法大師)がここを訪れ、21日間(三七日)留まって修行したという。その際、天竺(インド)の霊鷲山で釈迦が仏法を説いている姿に似た様子を感得し天竺の霊山である霊鷲山を日本、すなわち和の国に移すとの意味から竺和山霊山寺と名付け、持仏の釈迦如来を納め霊場開創祈願をしたという。その白鳳時代の身丈三寸の釈迦誕生仏が残っている。また、本堂の奥殿に鎮座する秘仏の釈迦如来は空海作の伝承を有し、左手に玉を持った坐像であり、2014年(平成26年)に4か月間開帳された。
室町時代には三好氏の庇護を受けており、七堂伽藍の並ぶ大寺院として阿波三大坊の一つとして栄えたが、天正10年(1582年)に長宗我部元親の兵火に焼かれた。その後徳島藩主蜂須賀光隆によってようやく再興されたが1891年(明治24年)の出火で、本堂と多宝塔以外を再び焼失したが、その後の努力で往時の姿を取り戻し第1番札所としてふさわしい景観になっている。
札所番号
寺伝その他の言い伝えでは空海が弘仁6年(815年)に四国霊場を開き、札所と札所番号を定めたことになっているが、これは史実ではない。四国は奈良時代から山岳信仰(後の修験道)の修行地で、空海も唐に渡る前には私度僧として修行のために故郷でもある四国で修行をしたが、唐から戻って後、特定の八十八箇寺を札所として定めたことはなく、後の人々が空海ゆかりの寺々を霊場に定めたものと推定される。実在の人物としての空海は、弘仁年間には都で密教の普及に努めていた。
江戸時代に入り庶民による霊場巡礼が盛んになると、四国を修行した僧などが案内書を出版するようになる。そのうちの一人である真念が「四国遍路道指南(しこくへんろみちしるべ)」を貞享4年(1687年)に出版した。現存する書物の中で、各寺に札所番号を記したのはこの本が最も古いとされている。当時大坂から四国へ渡るには淡路島を経由し鳴門から四国入りするルートがあり、鳴門の撫養(むや)の港に最も近い霊山寺を第1番札所としたと推測される。なお、その本の出版より34年前に巡拝した澄禅は「四国遍路日記」に、すでに当時の阿波国の中心は吉野川の北岸から南岸に移っていて、和歌山から徳島城の近くに上陸すると井戸寺がいちばん近い札所寺になっていたにもかかわらず、霊山寺から始めるのが通例であると書かれていることから、真念より以前すでに番号が付いていた可能性も否定できない。だが、真念の出版の2年後に出された真念と親交のあった寂本の「四國徧禮霊場記」には番号は記されて無くしかも善通寺から始まっている。また真念より約10年後に出された「奉納四国中遍路之日記」は霊山寺から始まりほぼ同じ順番であるが、この日記で現在と順番が違っている部分は、59国分寺 → 62一の宮 → 61香園寺 → 60横峰寺 → 64石づち山 → 63吉祥寺 → 65三角寺と記されているが、番号は記されてない。
境内
- 山門(仁王門) - 入母屋造楼門。
- 本堂 - 拝殿に奥殿が増築された構造で、拝殿の中央天井には龍が描かれ多くの吊り灯篭が下がっている。拝殿右隅上には地蔵菩薩三尊像が、左隅には釈迦像、その上には赤い賓頭盧尊者坐像(向かって左)とその右に修行大師姿の納札大師(のうさつだいし)[3]がいる。拝殿と奥殿の繋ぎ部分は団体専用予約席になっていて、その天井には星座が光る。秘仏本尊の厨子の前には仏舎利を納めた小厨子がある。
- 大師堂 - 全身漆黒の大師像が拝顔できる。
- 多宝塔 - 五智如来像を安置している。応永年間(1394年 – 1428年)の建造。
- 十三仏堂 - 不動明王堂に続く十二仏堂。
- 紀州接待所 - 紀州有田接待講が文政元年(1828年)より衰退期もあったが現在まで行われている。今は春の4日間のみ。山門を入ってすぐ右にある[4]。
- 縁結び観音立像(石像):山門を入って左の手水舎の背後に立ち、水かけ観音として様々な縁にご利益がある。
- 鐘楼堂
- 大池 - 鯉が泳ぐ極楽を象った放生池(ほうじょうち)[注釈 1]で大師堂の前にあり橋がかかっていて、池の中の6体の童子が地蔵菩薩を祈る。
- 小池 - 小さい滝がある泉水(しみず)池で大師堂に向かって左にあり、小さい阿弥陀如来が中に坐する。明治の庭の要素をなす。
- 明治の庭 - 本堂に向かって右前にある小さい庭。
- 庭園 - 境内の北東にある大きな庭、居上真人[注釈 2]製作による孫悟空のモニュメント作品10点が点在。
- 句碑歌碑 - 仁王門の右前に木村閑流の「うたた寝のときも手に持つ遍路杖」の句碑があり、多宝塔の右前に木村閑流の「南無大師遍照金剛田のみま寸 〇手乃山の心さ〇花」の歌碑がある。
- (参照)献灯 - 原爆の火 。1990年8月6日より当境内にあったあったが、近年、東林院へ移設された。
- 売店および納経所 - 境内の東側の駐車場横にあり、個人・団体全ての納経を扱う。また、賞状式の満願之証を授けてもらえる(小は1000円2名連名は1500円、大は1名も2名連名も2000円)。
境内の東側の駐車場から「発心の門」をくぐると山門前に出る。山門を入り、先に進むと左手に多宝塔、右手の池の先に大師堂があり、正面の奥に本堂がある。本堂に向かって左に十三仏の最初の不動明王坐像が祀られ、その左に続く十二仏が立姿で並んでいる。
足が不自由な場合など本堂への石段を登るのが困難な場合は、本堂西側(料理旅館の前)の入り口から本堂へ直接行くことができる。
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本堂の天井絵
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多宝塔
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不動明王堂
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縁結び観音像
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大池(放生池)
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小池(泉水池)
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庭園にあるモニュメント
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境内中央にある菩提樹
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納経所兼売店
行事
- 正月三が日:正月護摩祈祷。
- 2月節分:星祭り、厄除け祈祷。
- 2月21日 - 末日:接待講、お遍路を菓子などで接待する。
- 4月第1日曜:釈迦誕生会、青葉祭り、花祭り。
- 6月15日:大師誕生会、青葉祭り。
ほか、毎月1日には護摩供養が行われる。
境内周辺
板東駅から撫養街道を経て山門までの参道には緑色のペイント「Green Line」が引かれ当寺に至る。
- 宿坊 - 休業中。
- 駐車場 - 普通車100台・バス10台。無料。
- モニュメント - 庭園および駐車場には彫刻家・居上真人(四国大学短期大学部教授)の屋外彫刻が点在している。
- 石柱門 - 撫養街道・板東郵便局横の丁字路から北へ向かう門前通りにある。通りに沿って遍路宿(民宿)がある。
交通アクセス
- 鉄道
- バス
- 道路
奥の院
- 東林院
- 「種蒔き大師」とも呼ばれる。空海(弘法大師)は自らクワを持って米や麦の種を蒔き、また、民衆の心に菩提(さとり)の種を蒔くべく教えを説いた。以来、種蒔き大師として信仰を集めている。かつての遍路修行者達はここを参拝して心に菩提の種を蒔き、四国霊場を巡ることによってその芽を育てた、これこそが1番の奥の院たるゆえんであるとする[5]。
周辺の番外霊場
- 十輪寺
- 東林院と霊山寺の中間にあり、空海が学僧を集めて密教の教義について論議を行ったことから「談義所」とも呼ばれ、白雉2年(651年)に智光律師によって開創された。地蔵菩薩が本尊の寺である。
前後の札所
- 四国八十八箇所
- 88 大窪寺 --(38.8 km:大坂峠経由)-- 1 霊山寺 --(1.4 km)-- 2 極楽寺
- 四国霊場十三仏[注釈 3]
- 88 大窪寺(薬師如来) -- 1 霊山寺(釈迦如来) -- 14 常楽寺(弥勒菩薩)
周辺
脚注
注釈
- ^ 放生池とは捕らえた魚類などを放すための池、泉水池とは日本庭園に造られた池の意味で、両池とも名前は付けられていない
- ^ 鳴門市・出身および在住
- ^ 当寺本尊、常楽寺(弥勒菩薩)、立江寺(地蔵菩薩)、最御崎寺(虚空蔵菩薩)、善楽寺(阿弥陀如来)、竹林寺(文殊菩薩)、岩屋寺(不動明王)、浄土寺(普賢菩薩)、圓明寺(勢至菩薩)、香園寺(大日如来)、本山寺(阿閦如来・五重塔内)、讃岐国分寺(観音菩薩)、大窪寺(薬師如来)。なお、同じ本尊であれば他の札所でもよい
出典
- ^ 8万4千枚の納札を固めて造られた。現地説明板より
- ^ 『月刊 へんろ』 第398号、伊予鉄不動産、2017年5月1日。
- ^ 川崎一洋『四国「弘法大師の霊跡」巡り』セルバ出版、2012年12月18日、15頁。ISBN 9784863670792。
参考文献
関連項目
外部リンク
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阿波国(徳島県) 「発心の道場」 | |
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土佐国(高知県) 「修行の道場」 | |
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伊予国(愛媛県) 「菩提の道場」 | |
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讃岐国(香川県) 「涅槃の道場」 | |
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