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クリミア・ハン国
قريم يورتى (オスマントルコ語 ) قرم خانلغى (クリミア・タタール語 )
(国旗)
(国章)
1600年ごろのクリミア・ハン国の版図 南にオスマン帝国 、北にモスクワ大公国 ・ポーランド が位置する
クリミア・ハン国 (クリミア・ハンこく、クリム・ハン国 とも。クリミア・タタール語 : قرم خانلغى , ラテン文字転写 : Qırım Hanlığı , キリル文字転写 : Къырым Ханлыгъы , ウクライナ語 : Кримське ханство , ロシア語 : Крымское ханство 、1441年 頃 - 1783年 )は、ジョチ・ウルス の後継国家のひとつで、クリミア半島 を中心に存在した国家。首都 はバフチサライ 。
クリミア・ハン国の支配下で、クリミア半島にはテュルク諸語 の一種を話すムスリム (イスラム教徒)の住民が多く居住するようになった。彼らの子孫が、現在クリミアで少数民族となっているクリミア・タタール人 である。
歴史
前史
クリミア・ハン国は15世紀 中頃に、クリミア半島にいたチンギス・ハーン 後裔の王族、ハージー1世ギレイ (英語版 ) によって建国された。
ペルシア語 、テュルク語 などで編纂された16世紀 前後の系譜資料によれば、ハージー・ギレイの先祖は、チンギス・ハーンの長男ジョチ の13男であるトカ・テムル に遡る。『集史 』などのほぼ同時代の情報によれば、トカ・テムルはジョチ・ウルスの東部を統括していた兄オルダ のもとにいたとみられるが、その子孫の一派はクリミアにいたらしく、13世紀 後半にモンケ・テムル・ハン によってクリミア半島の支配権を認められたと伝承されている。
明らかな歴史では、クリミアは1238年 にモンゴル帝国 のバトゥ の遠征軍によって最終的に征服され(モンゴルのルーシ侵攻 )、ジョチ・ウルスの元では右翼の一派として、ソルハット(現スタールイ・クリム )を中心として、ジョチ・ウルスに属するテュルク・モンゴル系の集団(のちにタタール と呼ばれる人々)の主要な居住地のひとつとなった。14世紀 後半、バトゥ家および東方のオルダ家の断絶にともなってジョチ・ウルスが混乱すると、特に右翼ではハンを称する者が乱立し、クリミアは次第にジョチ・ウルスの中心都市サライ を支配するハンから自立するようになった。
貨幣 史料からは、バシ・テムル (英 : Bash Timur または英 : Tash Timur )なる人物が、クリミアで自らの名を刻んだ貨幣を鋳造 していたことが明らかになっている。1394年 から1395年 にかけて、ティムール朝 およびシャイバーニー朝 で編纂された系譜 史料によれば、彼はこの頃のサライのハンであったトクタミシュ の再従兄弟 であり、かつのちにサライのハンを経てカザン・ハン国 を建国したウルグ・ムハンマド の叔父にあたるとされる。いずれにせよ、イスラム社会 では、貨幣に自らの名を刻むことは主権 の宣言を意味し、この頃クリミアのタタールがサライのハンから相当程度独立していたことがわかる。
建国期
1430年 前後のジョチ・ウルスのハン位をめぐる激しい内乱の後、バシ・テムルの子[1] でクリミアにいたハージー1世ギレイ (英語版 ) は、リトアニア大公国 の支持を受けて自立をはかり、1441年 頃、クリミアにおいてハン位を自称、独立を宣言した。一般に、これをもってクリミア・ハン国の成立とみなされている。
ハージー・ギレイの死後、クリミアではハンの位を巡ってハージー・ギレイの息子たちの間で内紛が起こり、1475年 にオスマン帝国 の介入を受けた。オスマン帝国は、ジェノヴァ が保有していたクリミア半島南岸の諸港湾都市 を奪って自領に編入するとともに、内陸部から半島以北を支配するクリミア・ハン国を従属国 とした。
一方、オスマン帝国の支持を得て1478年 にハンの座を最終的に確保したハージー・ギレイの六男メングリ1世ギレイ は、オスマン帝国の保護下で勢力を蓄え、1502年 にはサライを攻略、分裂後のジョチ・ウルスにおいて正統政権と目される大オルダ(ウルグ・オルダ )を滅ぼし、大オルダの併合がこの政権にジョチ・ウルスの正統な後継者としての権威をもたらした。これにより、黒海 北岸をドニエプル川 下流域から北カフカス の一部まで支配し、タタールのみならずノガイ・オルダ の一部まで支配する王国に成長した。なお、その後クリミア・ハン国のハン位を独占したメングリ1世ギレイの男系子孫はみな名前の後半に「ギレイ」の名を冠したため、この王家は「ギレイ家 」と通称されている。1532年 、サーヒブ1世ギレイ (英語版 ) はバフチサライ に宮殿を築き、そこへ遷都 した。
最盛期
16世紀前半のクリミア・ハン国はカザン・ハン国 へしばしばハン位の継承者を送り出し、同じくカザンへの影響力を強めようとするモスクワ大公国 と対抗関係にあり、その軍勢はモスクワ やトゥーラ を幾度も包囲し、モスクワ大公国を大いに脅かした。世紀半ばにはカザン・ハン国、アストラハン・ハン国 がモスクワによって相次いで滅ぼされ、タタールの国々へのモスクワの影響力が増すが、1551年 に即位したデヴレト1世ギレイ (英語版 ) の率いるクリミア・ハン国軍は、モスクワ大公国がリヴォニア戦争 (1558年 –1583年 )の最中に、露土戦争 (1568年-1570年) でオスマン帝国 と共にアストラハンへ攻め込んで逆襲を試みた。1571年 のロシア・クリミア戦争 (英語版 ) では、ポーランド・リトアニア連合王国 と結んでモスクワを強襲し、モスクワの町を焼き払った(モスクワ大火 (1571年) (英語版 ) )。1572年 にもモロディの戦い (英語版 ) で再び攻め込んだが、撃退された。
また、このような大規模な遠征でなくとも、クリミア・ハン国のタタールやノガイたちはしばしばモスクワ大公国の領内に攻め込み、都市や農地を焼き払い、住民を捕虜として連れ去った。このためにクリミアの都市の商館は商品となるロシア人 やウクライナ人 の奴隷 で溢れかえったと言われている。
モスクワ大公国は捕虜となった人々を奴隷身分から買い戻すために多額の支出をせねばならず、また、襲撃を回避するためにジョチ・ウルスの正統継承者として貢納 を課すクリミア・ハン国の要求に応えねばならなかった。
衰退と滅亡
1600年のヨーロッパ
17世紀 に入ると、ロシア・ウクライナ の方面ではコサック と呼ばれる正教徒 の集団が各地にあらわれ、ムスリム であるクリミア・ハン国やオスマン帝国の領内に対して、逆に襲撃をしかけるようになった[注釈 1] 。また、ロシアでは南方の防衛体制がようやく整い、逆茂木線と呼ばれる防御ラインも構築されたため、世紀半ばにはロシアへのクリミア・ハン国の襲撃はようやく下火になった。17世紀後半になると、モスクワ大公国(ロシア帝国 )はウクライナへと支配を広げ、クリミア・ハン国と直接境界を接することになるとともに、クリミア・ハン国へは次第にロシアの圧力が加えられるようになる。
1683年 、クリミア・ハン国の軍勢も参加したオスマン帝国の第二次ウィーン包囲 が失敗に終わると、クリミア・ハン国もオスマン帝国の対ロシア戦争に巻き込まれた。18世紀 にはロシアの圧力はさらに強まり、1736年 には初めてクリミア半島本土へのロシア軍の侵攻を許した。このとき、16世紀以来のバフチサライの都と宮殿はロシア軍の手によって放火、破壊されている。
1768年 に始まる露土戦争 の後、ロシアは1774年 のキュチュク・カイナルジ条約 によって、クリミア・ハン国をオスマン帝国から独立させ、300年続いたオスマン帝国の保護から切り離した。これ以降、クリミアに対するロシアの影響力は急速に強まる。1783年 、ロシア帝国のエカチェリーナ2世 はクリミア・ハン国を併合 した[3] 。
歴代君主
ハージー1世ギレイ (英語版 ) (1430年 頃 - 1456年 、1期目)
ハイデル (英語版 ) (1456年 )
ハージー1世ギレイ(1456年 - 1466年 、2期目)
ヌール・デヴレト (ロシア語版 ) (1466年 - 1467年 、1期目)
メングリ1世ギレイ (1467年 、1期目)
ヌール・デヴレト(1467年 - 1469年 、2期目)
メングリ1世ギレイ(1469年 - 1475年 、2期目)
ヌール・デヴレト(1475年 - 1476年 、3期目)
ジャーニー・ベク (1474年 - 1476年 )…アストラハン・ハン (在位:1514年 - 1521年 )
メングリ1世ギレイ(1478年 - 1515年 、3期目)
メフメト1世ギレイ (英語版 ) (1515年 - 1523年 )
ガーズィー1世ギレイ (ロシア語版 ) (1523年 - 1524年 )
サーデト1世ギレイ (ロシア語版 ) (1524年 - 1532年 )
イスラーム1世ギレイ (ロシア語版 ) (1532年 )…アストラハン・ハン (在位:1531年 - 1532年 )
サーヒブ1世ギレイ (英語版 ) (1532年 - 1551年 )
デヴレト1世ギレイ (英語版 ) (1551年 - 1577年 )
メフメト2世ギレイ2世 (ロシア語版 ) (1577年 - 1584年 )
サーデト2世ギレイ2世 (ロシア語版 ) (1584年 - 1588年 )
ガーズィー2世ギレイ (ロシア語版 ) (1588年 - 1596年 、1期目)
フェトフ1世ギレイ (ロシア語版 ) (1596年 )
ガーズィー2世ギレイ(1596年 - 1607年 、2期目)
トクタミシュ・ギレイ (ロシア語版 ) (1607年 - 1608年 )
セラーメト1世ギレイ (ロシア語版 ) (1608年 - 1610年 )
ジャニベク・ギレイ (ロシア語版 ) (1610年 - 1623年 、1期目)
メフメト3世ギレイ (ロシア語版 ) (1623年 - 1628年 )
ジャニベク・ギレイ(1628年 - 1635年 、2期目)
イナイェト・ギレイ (ロシア語版 ) (1635年 - 1637年 )
バハディル1世ギレイ (ロシア語版 ) (1637年 - 1641年 )
メフメト4世ギレイ (英語版 ) (1641年 - 1644年 、1期目)
イスラーム3世ギレイ (英語版 ) (1644年 - 1654年 )
メフメト4世ギレイ(1654年 - 1666年 、2期目)
アディル・ギレイ (1666年 - 1671年 )
セリム1世ギレイ (英語版 ) (1671年 - 1678年 、1期目)
ムラト・ギレイ (英語版 ) (1678年 - 1683年 )
ハージー2世ギレイ (ロシア語版 ) (1683年 - 1684年 )
セリム1世ギレイ(1684年 - 1691年 、2期目)
サーデト3世ギレイ (ロシア語版 ) (1691年 )
サファ・ギレイ (ロシア語版 ) (1691年 - 1692年 )
セリム1世ギレイ(1692年 - 1699年 、3期目)
デヴレト2世ギレイ (英語版 ) (1699年 - 1702年 、1期目)
セリム1世ギレイ(1702年 - 1704年 、4期目)
ガーズィー3世ギレイ (ロシア語版 ) (1704年 - 1707年 )
カプラン1世ギレイ (ロシア語版 ) (1707年 - 1708年 、1期目)
デヴレト2世ギレイ(1709年 - 1713年 、2期目)
カプラン1世ギレイ(1713年 - 1715年 、2期目)
デヴレト3世ギレイ (ロシア語版 ) (1716年 - 1717年 )
サーデト4世ギレイ (ロシア語版 ) (1717年 - 1724年 )
メングリ2世ギレイ (ロシア語版 ) (1724年 - 1730年 、1期目)
カプラン1世ギレイ(1730年 - 1736年 、3期目)
フェトフ2世ギレイ (ロシア語版 ) (1736年 - 1737年 )
メングリ2世ギレイ(1737年 - 1740年 、2期目)
セラーメト2世ギレイ (ロシア語版 ) (1740年 - 1743年 )
セリム2世ギレイ (英語版 ) (1743年 - 1748年 )
アルスラーン・ギレイ (ロシア語版 ) (1748年 - 1756年 、1期目)
ハリム・ギレイ (ロシア語版 ) (1756年 - 1758年 )
クルム・ギレイ (英語版 ) (1758年 - 1764年 、1期目)
セリム3世ギレイ (ロシア語版 ) (1765年 - 1767年 、1期目)
アルスラーン・ギレイ(1767年 、2期目)
マクスド・ギレイ (ロシア語版 ) (1767年 - 1768年 )
クルム・ギレイ(1768年 - 1769年 、2期目)
デヴレト4世ギレイ (ロシア語版 ) (1769年 - 1770年 、1期目)
カプラン2世ギレイ (英語版 ) (1770年 )
セリム3世ギレイ(1770年 - 1771年 、2期目)
サーヒブ2世ギレイ (ロシア語版 ) (1771年 - 1775年 )
デヴレト4世ギレイ(1775年 - 1777年 、2期目)
シャヒン・ギレイ (英語版 ) (1777年 - 1782年 、1期目)
バハディル2世ギレイ (ロシア語版 ) (1782年 、1期目)
シャヒン・ギレイ(1782年 - 1783年 、2期目)
バハディル2世ギレイ(1783年 - 1790年 、2期目)
→ロシア帝国 に併合
注釈
^ 17世紀ロシアの外交官コトシーヒンによると、この時期にクリミア・ハン国にあてた公文書の中ではロシア皇帝はただツァーリとだけ名乗り、兄弟関係および隣人関係の名において呼びかけられ、皇子たちが兄弟と呼ばれることはない、という[2]
脚注
^ ハージー1世ギレイ (英語版 ) は、バシ・テムル (英 : Bash Timur または英 : Tash Timur )の子。Henry Hoyle Howorth, "History of the Mongols from the 9th to the 19th Century. Part 2. The So-Called Tartars of Russia and Central Asia. Division 1.", p.21, ISBN 9781402177729
^ G・コトシーヒン 『ピョートル前夜のロシア』彩流社、2003年、84頁。
^ クリム・ハン国 . コトバンク より2023年4月2日閲覧 。
参考文献
原始・古代 (紀元前300年以前) 中世前期 (300年 - 1240年) 中世後期 (1240年 - 1569年) 近世 (1569年 - 1775年) 近代 (1775年 - 1917年) 現代 (1917年 - 1991年) 現在 (1991年以降)
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