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テオドロ公国
ギリシア語 : Αὐθεντία πόλεως Θεοδωροῦς καὶ παραθαλασσίας
(国章)
緑色がテオドロ公国。
^ 口語としてキプチャク語 やクリミアゴート語 が話されていた
テオドロ公国 (テオドロこうこく、英語 : The Principality of Theodoro 、ギリシア語 :Θεοδόρο)は、12世紀 から14世紀 にかけてクリミア半島 南西部に位置していた東ローマ系の小国家である。前期にはコンスタンティノープル、後期にはトレビゾンド帝国の属国であった。一説によると、東ローマ帝国 のコムネノス王朝 に連なる大貴族であるガブラス家 がクリミア半島に建国した。
概要
中世クリミアの地図。緑色がテオドロ公国。
ゴティア としても知られる。首都はマングプ 。地理的に近接するトレビゾンド帝国 と同盟関係にあり、また北方のジョチ・ウルス やクリミア・ハン国 などの遊牧国家に服属していた[1] 。
15世紀の公国の領土には、首都マングプ 、カラミタ とアヴリタ のほかに、22~26の封建領地とその城 、100以上の村落、1つの修道院 と8つの教会修道院が存在した[2] 。周囲には、北方にはタタール人のクリミア・ハン国、南方にはフェオドシヤ 、バラクラヴァ などの港湾都市を中心とするジェノヴァ共和国 の植民地があった。ジェノヴァとテオドロ公国との交易は盛んであり、その一方で対立も繰り返した。1475年 までは領土内に3万戸の家があり、公国の人口は20万人に達していたとされている。
国教は、東ローマ帝国系の領邦であったことから正教会 (ギリシャ正教会 )であった。8世紀には、コンスタンティノープル総主教 区のゴティア管区が形成された。中世初期のクリミアでは、古代ゲルマン語 がまだ典礼(典礼奉仕 )の言語として使われていたが、その後、9世紀からはすでにギリシア語 で典礼が行われるようになった。
また、公国の民衆の話し言葉はスラヴ語 であったが、同時に民族間、文化間、宗教間のコミュニケーションには中世ギリシャ語 が広く使われていた。これは、主にギリシャ語で書かれた碑文等のモニュメント の存在を説明する。
テオドロ公国はクリミア 半島の南西部に存在し、1365年 までの南部国境は、東ローマ皇帝の領地であるヤルタ を除き、バクラヴァ からアリューストン の要塞 まで黒海沿岸を結んでいた。公国北部の国境は、黒海との合流点からベルベク川 に沿って西から東へと進み、カチ川 の上流に至り、その最東端にフナ要塞 を擁するデメルデシ山塊に達したのであった。後には、14世紀後半から、公国の南側の国境はジェノヴァ 人の植民活動などによってより北側に移された。南部の領域はジェノヴァ共和国の植民地となり、ジェノヴァの北方との交易に利用された。テオドロ公国の最西端は、北湾との合流点の黒海 の河口に位置するアヴリタ港 を持つカラミタ要塞 であった。
公国は11の行政区域に分割され、テオドロ公国領であるベルベク、ベイダル、ヴァルヌ渓谷、チェンバロ、マングプ の家臣の土地などが含まれたが、これらはジェノヴァ の資料ではバロンヌとも呼称されるものである。
そのほかにも、ジェノヴァ 人の独立した共同体(アルシタ、パルテニト)や公国の領土内には、多くの大規模な教会封建地が存在していたという。
6世紀には、黒川河口のモナスチルスカヤ岩の上にカラミタ、ベルベク谷の入り口のクレ・ブルン岩の上にシヴァリン、アルマとボドラクの間の岩場の上にバックラ、ブハラ村の近くにシヴァグ・ケルメン城 が建設された。また、これらの要塞は、クリミア・ハン国 [3] [4] 。の状況を監視し、重要なルートを管理するために建設された物であった。
歴史
建国
6世紀以降、テオドロ公国の領土には、大規模な集落の近くに位置する小さな要塞化された小規模な集落群が形成された。人々はこれらの所に永続的に住んでいたのではなく、軍事的な危機や天災などに備えて他の集落からそこに集まってきたのであった。
また、8世紀には、要塞 化された"kastronov"(κάστρον)と呼ばれる、今ではイサラとして知られている城が築かれ、これらの要塞の場所に後に国家となる集落などの建設が始まった。中心の要塞のほとんどはラスピとアルシュタの間に位置し、70kmの海岸線に沿っていました。すべての要塞は非常に経済的に建立されたと言う。
840年、南西クリミアには、ギリシア人のほかにゴート人、スラヴ人などが多く居住する土地であった。すなわち、テオドロ公国はゴート人の子孫と東ローマ帝国 の移民の農民によって作られた。
1204年には、十字軍 によるコンスタンティノープルの占領 という、東ローマ世界全体にとって影響の大きい出来事があった。当時は東ローマ帝国の支配した黒海への自由なアクセスを持っていたトレビゾンド帝国 だけが、東ローマ帝国の海外植民地との結びつきをなんとか維持し、その後継者となっていた。
また、テオドロ公国はその影響によって「海のあちら側にいる」、「ザモリエ」を意味する新しい名前ペラシー(θέμα Περατείας)を得た。
マングプに残る城館
13世紀 には、ペラティ・フェム公爵 の一人が国家を建て、後にその国家はテオドロ公国 またはマンギュペ公国 として知られるようになった。また、その国家は、ジェノヴァ 語の文献では、トドロ、テオドロ、テドリなどのように表記された。恐らく、これらの名称は、クリミアの古い地名に由来すると考えられる。一般的にはこれらの名称に由来する「テオドロ公国」と言う呼称が用いられている。
1253年にクリミアを訪れたフランシスコ会 の修道士 ウィレム・ルーブルック(Willem Rubruk, 1220-1293)は、彼のメモの中で次のように証言している。「テオドロ公国には約40ほどの城砦が存在し、それぞれ固有の言語 を話している」。
また、14世紀までに残された領土は一種の専制君主となり、彼らの支配者は実際にはと東ローマ帝国やトレビゾンド帝国への依存度が低くなっていった。しかし、その時代もなおギリシア語が公用語で、ビザンティン様式が主流であった。
最盛期
ジェノヴァ人の要塞
1345年 、ジェノヴァ 人はそれまでテオドロ公が所有していたチェンバロへの植民をはじめ、テオドロ公国への足がかりを得た。また、1365年 、ジェノヴァ人はスグダイアとスダック谷等のの18の村をテオドロ公から割譲させた。
1387年 以降、ジェノヴァ人が獲得した領土は、バラクラヴァからスダックまでの狭い海岸 線を占め、北はクリミア山脈 の主稜線に接していた。
この様に、テオドロ公国の街は、ジェノヴァ共和国との協調によって一応の繁栄を見せた。しかし、14世紀の90年代には大部分が過疎化が進み、当時のテオドロ公国の首都・マングプが荒廃したのは、他国の軍事行動によっての物ではなく、強い地震によって都市とその周辺が破壊されたためであったと言われている。
テオドロ公国で最初に確立された専制的な支配者は1402年 に即位したアレクシオス1世コムネノス・ガブラス 公であり、彼はジェノヴァ人に対して譲歩せず臨んだ。彼はジェノヴァ共和国の領事館の存在したチェンバロ の領土を公然と主張し、その影響もあってか、1411年 からジェノヴァ人は金銭的な補償金を支払った。このような支払いは1422年 ごろまで行われたが、アレクシオスはこれらの金額に満足していなかったと言う。
1422年 、テオドロ公国とカファの戦争 及ばれる抗争が始まる。テオドロは、何度か手を変えたジェノヴァ 人が支配する都市や町を攻撃した。
ジェノヴァ人がアリュストンやその他の海岸の小規模な要塞を失った後、テオドロ公国に征服され、ジェノヴァ植民地という名は名目上の意味だけを持つようになった。しかし、ジェノヴァ人との交易はその後も続き、居住し続けた。
また、この頃からイタリアの航海図やジェノヴァの文書の中で、タウリダの海岸に沿って沿岸航行のラインを示すようになった。
アレクシオス1世が築いた要塞跡
アレクセイ1世は、彼は東ローマ皇帝 ・ヨハネス 大帝の支配期間に、同盟 国を必要とし、それはトレビゾンドの将来の皇帝、およびタタール の大オルダ の侵攻に備えてのことであった。テオドロ公国とトレビゾンド帝国は、互いに関係していた。1429年、アレクシオス1世 コムネノス・ガブラスの娘マリア [要曖昧さ回避 ] は、トレビゾント皇帝 ・アレクセイ4世 皇帝 の息子であるダヴィド と結婚した。
1425年 、アレクセイ1世公の長男ヨハネ は、パレオロゴス王朝の一員・マリア・パレオロギナ ・アサニナ・ツァンブラコニナと結婚し、東ローマ帝国との関係を深めた。コンスタンチノープルの皇族と親戚筋となったことから、テオドロ公は東ローマ皇室の紋章である双頭の鷲 の紋章を受け入れ、「テオドロとプリモリエの都市の所有者(αὐθνέτης πόλεως Θεοδωροῦς Παραθαλσσίας )」と名乗るようになった。
1427年 、黒海の河口に、長い間放置されていた建国以前の要塞 の代わりに、アレクシオス1世は新しい要塞建設した。
ジェノヴァの侵攻を撃退するアレクシオス
1434年 6月4日 、ジェノヴァ共和国の貴族、カルロ・ロメッリーニ の指揮の下、20隻の船と6000人の傭兵で構成されたジェノバ艦隊がバラクラバ湾に侵攻した。1434年 6月10日 、元ジェノヴァ領のチェンバロ の要塞 が奪われた。また、数日後ジェノヴァ共和国 はカラミタの海辺の要塞を捕獲した。勝利の後、カルロ・ロメッリーニは海ではなく陸路でクリミア の南海岸に沿ってカファに行き、入植地を略奪し、地元の大名 の城を破壊し、抵抗しようとした人々に服従するように導いた。
しかし、1434年6月22日、カスタドゾン近郊のソルハタの戦いでテオドロ公国のハジ・グレイとその同盟者である封建民の部隊に敗れたジェノヴァ軍約8,000人は、カファに退却した。記載されているイベントの時点では、アレクセイ1世公と彼の長男ヨハネス はトラペスンダにいて、敵対する軍を大破し、勝利した。
テオドロ公国の教会。様式が顕著であった。
1446年 にアレクシオス1世が死去した後、1447年 から1458年 まで君臨したマヌエル1世 は、王位継承権を利用し、アレクシオス1世の跡を継いだ。1447年のジェノヴァの文書には、テオドロ公国を支援するための軍事的・外交的な行動が、トレビゾンド の皇帝 とギリシア の専制公 によって組織されたことが書かれている。
衰退・滅亡
地震により大破したテオドロ公国時代の建物跡
クリミアの南海岸の所有権を持つテオドロのための成功した戦争は、15世紀の後半以来、その地位の安定につながった。 ジェノヴァ人は再びテオドロ公国の一部のの支配者となった。1460年のイタリアの情報源では、イサキオス (ギリシア語 )という君主が1474年 末まで統治した。
コンスタンティノープルに入城するメフメト2世
1453年 にコンスタンティノープルの陥落 という事件が起こったことで、東ローマ帝国系の国家はついに衰退の一途をたどることになった。1461年 までは、その正当な後継者は、コムネノス朝 トレビゾンド帝国 であり、後には、クリミア のテオドロ公国となった。その支配者たちは「専制君主 」の称号を名乗った。また、その頃からテオドロの支配者の紋章には皇帝 の冠 が登場するようになった。
1472年 9月24日 、イサキオス公の姪であるマリア [要曖昧さ回避 ] (マリヤ)は、モルドバ の領主ステファノス (1433 - 1504)の妻となった。彼女はブルガリア王 アセニア、コムネノス家 と親戚関係にあったため、東ローマ帝国の皇帝 の後継者と考えていたモルドバのステファノスにとって、この結婚は非常に名誉あるものとなり、ヨーロッパからの評価を期待した。
しかし、コンスタンティノープルとトレビゾンド帝国を征服し、「ローマ のカエサル 」の称号を得たトルコ帝国 のスルタン 、メフメト2世 ファティは、新たなる十字軍 を準備していた競争相手を相手としなかった。
1475年初頭、モルドバのステファノスの義理の弟であるアレクサンドロス は、叔父のテオドロ公イサキオス の死の知らせを受け、血縁関係を利用して公女マリアとの息子をテオドロ公国の公位に就かせた。また、ステファンは自費で船 を装備し、300人の武装したモルドバ 兵を遠征に提供したが、その目的はアレクサンダーとの良好な関係を保つことにあった。
彼のライバル、ハンガリー王 マティアス・コルビン は、テオドロ公位に就くことに反対する内容の最後通告を受けていたが、1475年 6月 にアレクサンダーはテオドロ公位に就いた。
1475年 9月 、カファと海辺の都市を征服していたオスマン帝国 が首都・マングプ に来て、大砲を駆使した包囲戦 を開始した。住民のほとんどが街を離れ、周辺の山村に広がっていき、財産や家畜を持ち出していった。
要塞の壁の後ろには、ステファン・モルドバの兵士とタタール人が送った封建民からなる2000人の駐屯地が隠されていた。テオドリッツとモルダヴィア人は、当時のオスマン帝国軍のエリートであったイェニチェリ 軍団を破壊することに成功するなど奮闘を見せたが、1475年 12月、ついにマングプの要塞 は陥落した。最後のテオドロ公国の君主となったアレクサンドロス公は捕虜となり、イスタンブール に送られ、処刑された。
その後のテオドロ公国
イサアク公の妹・マリアの埋葬
以後、オスマン帝国の属国 になったクリミア・ハン国 の領域を除いて、クリミア半島 のかつてのテオドロ公国の版図を含む南部一帯はオスマン帝国の領土となった。
また、トルコの歴史家 ・ジェンナビは、オスマン帝国の指揮官ゲディク・アーメド・パシャが「要塞で数人のキリシタンの王子を捕らえ、スルタンのポルタに送った」と報告した、と書き残している。そして、それらの王子らは、最後まで抵抗を続けたものの、遂にトルコ人に捕らえられ、イスタンブールに送られたと言う。
公国の征服の後、ケファ(Feodosia)で小さなコミュニティが形成された。また、3つの都市(マングプ、インカーマン、バラクラヴァ)と49の村から構成されていた。
オスマン帝国の支配下にあったギリシア人 とクリミア・ゴート人 の証拠は、1557年から1564年にかけてオーストリア皇帝 ・フェルディナンド1世 の下でトルコ大使を務めたバスベク男爵 によって残されている。彼はイスタンブールでクリミア人の特使二人と出会い、長い会話を交わした。彼の報告によると、彼等は非キリスト教徒(イスラム教徒など)に囲まれながらもキリスト教 の信仰を保持しており、マングプとシヴァリンという名の2つの主要都市 を持っているという。
王家のその後
ゴールロウィン家の紋章
14世紀 後半の1393年 、若い王族のうちの一人であったステパン・ヴァシリーエヴィチ・ホヴラ(ステファノス・バシレイオス・ガヴラス)がテオドロ公国を離れ、当時ルーシ人の支配する地だったモスクワ に移り住んだ。彼の子孫はモスクワに著名な修道院 であるシモノフ修道院 を設立した。彼らはギリシャ・クリミアに由来する高貴な家として遇され、また「ゴブリン (ホヴリン)」のあだ名で呼ばれ、一時期、モスクワ大公国 の財政管理官の位(会計官 (英語版 ) )を世襲的に担当していた。16世紀 に至って、ステパンの曾孫にあたるイヴァン・ウラジーミロヴィチはアンナ・ダニーロヴナ・ホルムスカヤと結婚し、彼らは自分たちの名字を「ゴールロウィン (ゴロウィンとも)」に変え[5] 、近代ではロシア帝国の名門となった。しかし、イヴァン4世の時代に不興を被って当主が処刑され、家族もカザンに流されるなどして没落したが、後に宮廷に戻った。しかし、ピョートル1世の代まで軍で高い地位に就くことはできなかったが、その後伯爵に叙され、ロシア帝国の宰相なども輩出する大貴族家へと成長し、多くの土地を領有した。リヴォニア騎士団 の貴族名簿にも載っていたその一族は、ロシア帝国の滅亡後にも存続し、現在でもロシアに子孫が残っている。
王朝
この公国 を統治した王朝 は、ビザンツ帝国 の皇帝を輩出したコムネノス朝 を盟主とするいわゆる「御一門」の一部を構成した準皇族ガブラス家 である。
文化
マングプの正教会の寺院
民族
テオドロ公国の人々はギリシャ人、アラン人、ブルガース、クマン人、キプチャク人、ジェノヴァ人およびその他の民族グの混合であり、その多くは正教会に忠実な民族であった。 公国の公用語はギリシャ語であった。
美術様式
テオドロ公国では、さまざまな文化的影響を見ることができる。その建築とキリスト教の壁画は基本的にビザンティン様式 であったが、一部の要塞は地元のジェノヴァ人の特徴も示している。 この地域で見つかった大理石の建設物は、ビザンチン、イタリア 、タタール の装飾要素を組み合わせて装飾されているものも存在した。
歴代君主
代が不詳な君主が多く、説によっては在位年が前後する。
(この間、君主の歴代や系譜は不明)
脚注
^ 後に大オルダ
^ オーストリア外交官の記録
^ 従属国で、後にロシア帝国に組み込まれた。
^ “Khanate of Crimea ” (英語). Encyclopaedia Britannica. 2019年1月4日 閲覧。
^ コムネノス・ガヴラス→ガヴラス→ゴヴリン→ゴロヴィン→ゴールロウィン
関連項目
外部リンク
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