この項目では、ウクライナ・コサックの国家について説明しています。1848年から1849年に存在した国家については「ウクライナ=コサック国 」を、1918年に成立したヘーチマン政府については「ウクライナ国 」をご覧ください。
ヘーチマン国家「ザポロージャのコサック軍」
Військо Запорозьке (ウクライナ語 )
(国旗)
(国章)
ヘーチマン国家の領域(1654年)
^ 男性人口の数字のみ。(ロシア語 : Кабузан В.М. Изменения в размещении населения Роесии в XVIII — первой половине XIX в. — Москва., 1971. (E.カブザン『18世紀ー19世紀前期におけるロシアの人口分布の変遷』)その研究によると、キエフ 地方の男性人口は23,052人、チェルニーヒウ 地方の男性人口は438,897人、ポルタヴァ 地方の男性人口は565,964人である。
ヘーチマン国家 (ウクライナ語 : Гетьма́нщина [1] )は、1649年 から1782年 の間にドニプロ・ウクライナ に存在したコサック の国家 である。ポーランド・リトアニア共和国 における最大のコサック反乱であるフメリニツキーの乱 によって誕生した。国家の君主 であるヘーチマン によって統治されたことから、ヘーチマン国家と呼ばれた。正式な国号 はザポロージャのコサック軍 (Військо Запорозьке )である。
1654年 以後、ロシア・ツァーリ国 とロシア帝国 の保護下に置かれ、1667年 にコサック内戦とロシア・ポーランド戦争 の結果、アンドルソヴォ条約 でロシアとポーランドの間に分割された。1699年 にポーランド支配下の右岸ウクライナ においてコサックが廃止されると、ロシア支配下の左岸ウクライナ において存続し、ポーランド・オスマン帝国 とクリミア・ハン国 からロシアを守る役割を果たした。
1709年 に大北方戦争 の際、ロシアから離れてスウェーデン の保護を受けようとしたが失敗、18世紀 中にロシア政府の政策により政治的・経済的の独立を失った。1764年 にロシアのエカチェリーナ2世 はヘーチマン制を廃止、翌1765年 に国土はロシアの小ロシア県 に編成され、1786年 にコサック連隊制 が廃止となった。
国号
正式
ザポロージャ のコサック軍 (Військо Запорозьке )
研究史上
ヘーチマン国家 ・ヘトマン国家 (ウクライナ語 : Гетьма́нщина )。「ヘーチマン」というコサック棟梁の称号による。コサック国家 (ウクライナ語 : Козацька держава )。主権はコサック のみに属していたことによる。ヘーチマンのウクライナ (Гетьманська Україна )。ウクライナ史 上の国家であることを強調するため。
コサック側
軍 (Військо )、ウクライーナ (Україна )ヴクライーナ (Вкраїна )。
ロシア側・正教会側
小ロシア (Малоросія )、ウクラーイナ (Украйна )。
歴史
ポーランドからの独立
ヘーチマン国家の建国のきっかけは、1648年 にポーランド・リトアニア共和国 の領土であったウクライナで始まったフメリニツキーの乱 である。ウクライナ・コサックは現地の大公 たちと大貴族(マグナート )の支配に対して大きな反感を抱き、ザポロージャ・コサック の棟梁(ヘーチマン)であるボフダン・フメリニツキー [2] の下、政府に対して反旗を翻した。
コサック軍はジョーウチ・ヴォードィの戦い 、コールスニの戦い 、そしてプィリャーウツィの戦い で官軍を破ったことにより、広範な支持を取り付けた。反乱はウクライナ全土に拡大し、コサックのみならず多数のウクライナの町人・農民 さえフメリニツキーの軍勢に加わった。1649年 にはポーランド・リトアニア共和国は連敗に連敗を重ね、ウクライナの中央にあったキエフ県 ・チェルニーヒウ県 ・ブラツラウ県 をコサックに明け渡し、コサックの自治権を認めて平和条約を結ぶことを余儀なくされた。
法律上ではウクライナ・コサックはポーランド・リトアニア共和国の保護の下で置かれていたが、事実上は独立した政権として存在していた。コサックの頭領であったヘーチマンは、コサックの域内では内政権と外交権をもち、反乱参加者の内からもっとも有力な武将を中心に政府を作った。コサックの国は「ポールク 」(полк :「連隊 」)という行政単位に分かれ、外敵にいつでも打ち向かうことができるように強い軍事的性格を保ちつづけていた。首都 はチヒルィーン に置かれた。国内の経済を活発化させるためすべての税 はコサック政府に集められ、独自の硬貨も鋳造されるようになった。
しかし、ポーランド・リトアニア共和国にとってウクライナ・コサックの自治 は許容しがたいものであった。この前、ポーランド・リトアニア共和国とオスマン帝国 は長年の戦争を終えて平和条約 を結んでおり、共和国側の人間がオスマン帝国領へ侵入して略奪 行為を行うことを厳しく禁止していた。しかしそういった略奪行為はウクライナ・コサックたちの昔からの伝統的な生活の一部であり、略奪先で捕獲した人々を奴隷 として売買する取引は彼らコサックたちの貴重な収入源だったのである。トルコ領への侵入・略奪行為が禁止されたことでウクライナ・コサックたちがポーランド・リトアニア共和国に対して反乱(フメリニツキーの乱 )を起こした結果がヘーチマン国家の成立であった。
問題は、ヘーチマン国家がポーランド・リトアニア共和国内で自治権を獲得したとはいえ、法律上その国家はポーランド・リトアニア共和国の主権 下にあり、これはウクライナ・コサックたちがポーランド・リトアニア共和国の国民であることを意味した。ヘーチマン国家のコサックたちが「伝統的な経済活動」を自由に行えるようになると、ヘーチマン国家の責任者であるポーランド・リトアニア共和国の外交 、特にオスマン帝国との外交にとって非常にまずいことになったのである。
ポーランド・リトアニア共和国は国力の回復を待ち、1650年 にウクライナ・コサックとの条約を破棄してコサック討伐 戦争を開始したが、それは失敗に終わった。この戦争の結果、ポーランド・リトアニア共和国は中央ウクライナの支配を最終的に失い、コサックの国家はポーランド・リトアニア共和国と敵対関係にあったオスマン帝国 やモスクワ大公国 (ロシア・ツァーリ国 )などと手を結んで国際的に独立国家として承認されたのである。このような経緯から、フメリニツキーの蜂起とヘーチマン国家の成立はウクライナ独立の画期とみなされる。またこれはポーランド・リトアニア共和国崩壊の端緒となり、1655年 にはスウェーデンがポーランド領内に侵攻して、のちに「大洪水時代 」と呼ばれることになった大きな戦乱時代が幕を開けた。
ロシア・ツァーリ国の保護
フメリニツキーはポーランドからの自治を勝ち取ったものの、周囲を敵に囲まれており、軍事・外交の面で極めて難しい状況にあった。反乱開始当初に同盟を結んでいたクリミア・ハン国 は後にポーランド側に寝返ったため、フメリニツキーは同盟国を求めて一時はオスマン帝国 の宗主権下に入っている。またモルダヴィア公国 、スウェーデン 、トランシルヴァニア公国 、ロシア・ツァーリ国 との同盟も求めようとした。1654年 にはロシア・ツァーリ国とペレヤースラウ条約 (ペレヤスラフ条約)を結んでその保護下に入った。同じ正教徒であるモスクワとの同盟は、イスラム教徒のオスマン帝国との同盟よりも当時のウクライナでは歓迎されたが、その後は長年に亙るモスクワによるウクライナ支配をも齎してしまった側面がある。
17世紀のウクライナ・コサックの領土
この協定に対する評価はウクライナとロシアでは分かれている。ウクライナはこの協定を、フメリニツキーが結んだ多数の短期的な同盟の単なる一つとみなしたが、ロシアおよび後のソ連は、歴史の中で別々の道を歩んだロシアとウクライナがこの協定でついに永続的に統合されたとみなした。
ポーランドにおける「大洪水時代」はロシア・ポーランド戦争 (1654年-1667年) で頂点に達する。この戦争ではモスクワとウクライナ(ヘーチマン国家)は共に戦ったが、やがて利害の対立が深まり始める。1656年にはモスクワはスウェーデンに宣戦布告し、ヘーチマン国家への通告なくポーランドと和平を結ぶに至った。これに怒ったフメリニツキーはモスクワと戦うためにオスマン帝国やトランシルヴァニアなどの各国、中でもスウェーデンと結んで蜂起しようとしたが、その直後に没してしまった。
フメリニツキーの死後はドニプロ川の左岸と右岸にヘーチマンが並立したうえ、各国がウクライナの地を舞台に戦い、ウクライナは「荒廃時代」(ルイーナ )とよばれる衰退期に入った。
ヘーチマン国家の自治と滅亡
ロシア・ポーランド戦争の終結となる1667年 のアンドルソヴォ条約 によりウクライナのコサック国家がポーランドとロシアの間に分割された。この分割は1689年 の永遠平和条約 により固定された。キエフを含むドニプロ川の左岸に位置するヘーチマン国家の領土はロシアの支配下に置かれ、「左岸ウクライナ 」と呼ばれるようになった。一方、「右岸 」ではポーランドの支配が復活し、コサックは自治を奪われ、1700年 にはヘーチマンやコサックの制度が廃止されてしまった。
1709年 、大北方戦争 中にヘーチマンのイヴァン・マゼーパ が反ロシアの蜂起を起こしたことにより、ヘーチマン国家にはロシアの高官や軍隊が送られてコサックの自治権が大きく削減され、1722年 にヘーチマンの政府が廃止された。1734年 までにコサックの統制を行ったのはロシア政府の機関、小ロシア委員会 であった。
18世紀のウクライナ・コサックの領土
その後ヘーチマン政府は、一時期に回復されたものの、1764年 に最終的に廃止されることとなった。このことによりヘーチマン国家は事実上亡ぼされ、1781年 にその旧領土においてチェルニーヒウ代官地 、ノーヴホロド・シーヴェルシクィイ代官地 、キエフ代官地 が設置された。
国家組成
ヘーチマン国家は「ザポロージャのコサック軍」とも呼称されていた。その領土は、ドニプロー川を軸にして現在の中部ウクライナから南ベラルーシまで拡大していた。面積はおよそ20万km²の面積で、人口は約300万人であったという[3] 。1660年代までの国家の首都は、キエフやザポロージャではなく、フメリニツキーの故郷、チヒルィーン の城に置かれていた。ペレヤースラウ条約締結後は領域は左岸のみとなり、首都はウクライナ北部のバトゥールィン になった。マゼーパの反乱の後、バトゥールィンはロシア軍により懲罰として破壊され住民は虐殺 され、首都はさらにロシア国境に近いフルーヒウ へと移っている。
ヘーチマン国家の国家構造は、そのコサック軍的な要素で特徴付けられている。国家元首 は、コサック全員による大会議により終身選任され、国内の最高立法権・行政権・裁判権を有するコサックの長であるヘーチマン が担い、その下でコサック軍の軍隊階級に準じた役職が各階層でラーダ (会議)を持ち、国家の運営に当たった。ヘーチマンの下には、ヘーチマン・ラーダ が置かれた。ヘーチマンの側近はヘネラーリナ・スタルシーナ (大長老衆) と呼ばれ、ヘネラーリヌィイ・オボーズヌィイ (大輜重官、軍隊では大将 相当)、ヘネラーリヌィイ・スッヂャー (大裁判官)、ヘネラーリヌィイ・プィーサル (大書記官)、ヘネラーリヌィイ・ピドスカールビイ (大主計官)、ヘネラーリヌィイ・ホルーンジイ (大軍旗手官、軍隊では中将 相当)、ヘネラーリヌィイ・ブンチュージュヌィイ (大ブンチューク 手官、軍隊では少将 相当)、2人のヘネラーリヌィイ・オサヴール (大オサヴール 、軍隊の階級名)からなっていた。大長老衆は、選挙 によって選出された。この他、臨時職としてナカーズヌィイ・ヘーチマン (任命ヘーチマン、ヘーチマンの代官 )が置かれたこともあった。
こうした役職は、それぞれ国の行政 、司法 、立法 、軍事 、外交 などを司った。その最高機関はヘネラーリナ・ヴィイシコーヴァ・ラーダ (大軍事会議)で、ヘネラーリナ・スタルシーナによって運営された。ヘネラーリヌィイ・スッヂャーは、最高司法機関であるヘネラーリヌィイ・ヴィイシコーヴィイ・スード (大軍事法廷)を運営した。ヘネラーリヌィイ・プィーサルは、最高行政機関であるヘネラーリナ・ヴィイシコーヴァ・カンツェリャーリヤ (大軍事行政府)を運営した。ヘネラーリヌィイ・ピドスカールビイは、ヘネラーリナ・スカルボーヴァー・カンツェリャーリヤ (大主計行政府)を運営した。
ヘネラーリナ・スタルシーナの下には、ヴィイシコーヴァ・スタルシーナ (軍事長老衆)が置かれた。その下に置かれたのがポルコーウヌィク (軍隊では大佐 相当)であった。ポルコーウヌィクはポルコーヴァ・ラーダ (連隊会議)を持ち、国家の基幹である「ポールク」(連隊)を運営した。その下には、ソートニャ (百人隊)を運営するソートヌィク 、最小単位であるクリーニ を運営するクリンヌィーイ・オタマーン (クリーニの棟梁)が置かれた。こうした組織は、それぞれにラーダを持っていた。
全体として国内の連隊の数は常に16を超えていた[4] 。連隊制とは別に、コサック国家内で自治制を保つウクライナ・コサックの根拠地ザポロージャのシーチ (英語版 ) が存在し、それはヘーチマンの直轄地とされ、ヘーチマンに任命された連隊長と違って、シーチのコサックが選ぶコサック大長官 によって治められた。
社会は、コサック・貴族・聖職者・町人・農民という階級に分かれており、国権はコサックのみによって発動されていた。コサック以外の階級は国政運営から切り放されていたが、貴族と聖職者は身分権・領地自治権が保障されており、町人はドイツ法 に基づく自治権を有していた。また多く農民は、フメリニツキーの乱によって農奴 から解放され、自由な所有者となり、税金と引換えに土地を所有することが許された。フメリニツキー統治下のコサック国家では、階級の境界は柔軟で、貴族と町人はコサックになることが多かった[5] 。
従来のコサックの習わしによれば、国政はヘーチマンとコサック全員との大議会で行うはずであったが、フメリニツキー時代のコサック国家の大議会はほとんど開催されることなく、国政に関するすべての判断はヘーチマンの独断かヘネラーリナ・スタルシーナ (大長老衆)との相談によって決められていた。国の財政を握ったのはヘーチマンのみであり、国家予算の内容は戦利品と徴税からなっていた[6] 。
行政区分
首都
連隊
ヘーチマンの一覧
脚注
関連項目
史料
参考文献
外部リンク
原始・古代 (紀元前300年以前) 中世前期 (300年 - 1240年) 中世後期 (1240年 - 1569年) 近世 (1569年 - 1775年) 近代 (1775年 - 1917年) 現代 (1917年 - 1991年) 現在 (1991年以降)
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