丹羽 雄哉(にわ ゆうや、1944年〈昭和19年〉4月20日 - )は、日本の政治家。自由民主党所属の元衆議院議員(12期)。
厚生大臣(第74・82・83代)、自由民主党総務会長(第45代)等を歴任。
運輸大臣、衆議院議員を歴任した丹羽喬四郎の三男。
来歴・人物
茨城県新治郡玉里村(現在の小美玉市)出身[2]。麻布中学校・高等学校、慶應義塾大学法学部法律学科卒業。読売新聞政治部記者を経て、父と当選同期だった大平正芳の秘書になる。1979年、前年に死去した父・喬四郎の地盤を引き継いで旧茨城3区から自由民主党公認で第35回衆議院議員総選挙に出馬し、初当選。以後10期連続当選。当選後は大平が率いる宏池会に入会。
自民党内の厚生族議員の代表格。第2次中曽根改造内閣で厚生政務次官、宮澤改造内閣・小渕第2次改造内閣・第1次森内閣で厚生大臣を務めたほか、1993年8月には党の医療基本問題調査会長を務めるなど、社会保障政策に強い影響力を持っていた。
初当選以来宏池会に所属し、加藤紘一の側近であった。2000年11月に起きた加藤の乱では、加藤の政権構想や倒閣プランの作成を担っていたとされる。しかし、倒閣運動の途中で加藤と袂を分かち、加藤が事実上失脚してからは堀内派に所属し(丹羽の離脱は古賀誠の一貫した反加藤の姿勢と共に、親加藤派に大きな影響を与えた)、堀内派会長代行を務める。
2005年7月5日、堀内光雄会長が郵政国会もおいて郵政法案の衆院本会議採決を巡り派閥会長辞任を表明。堀内派は会長ポストを空席とし、丹羽会長代行 - 古賀事務総長による二枚看板体制で派閥を運営していく。しかし、同じように領袖不在だった旧橋本派が津島派、旧亀井派が伊吹派へそれぞれ移行していく中、これ以上派閥会長不在の状態が続くのは好ましくないとして、集団指導体制から新会長体制への移行問題が浮上。古賀が会長就任を狙ったものの、「古賀派」を嫌う勢力が「派閥を出て行く」などと反発。調整の結果、2006年2月、丹羽と古賀が新設の共同代表に就任し、それまでと同じように丹羽・古賀の二頭立て体制で落ち着いた。
2006年9月の自民党総裁選挙で派閥内を安倍晋三支持で一本化したことへの評価で、安倍新内閣には派閥から4人の閣僚を送り込むとともに、安倍と同じ厚生族という安倍との個人的関係もあり自らは安倍総裁の下で自民党総務会長に就任。
これに伴い派閥を離れた直後、派内にて会長職を古賀に一本化する人事が承認され、派内の丹羽系議員と古賀系議員との関係がきしみ始めたと見る動きがある。古賀の会長就任以降は報道機関の多くが派閥名を丹羽・古賀派から古賀派に切り替えたが、読売新聞社のみは、2007年9月まで丹羽・古賀派で通していた(これは、丹羽は読売新聞記者出身であったことも影響している)。古賀が選挙対策委員長として執行部入りを果たした後も派閥会長に返り咲くことはなく、常任顧問を務めた。
2009年8月30日の第45回衆議院議員総選挙で11回目の当選を目指し出馬したが、民主党の大泉博子に敗れ、比例復活も叶わず初当選以来初めて落選した[3]。
2012年12月16日の第46回衆議院議員総選挙で、次点以下に大差を付けて当選し、3年ぶりに国政へ復帰した。復帰後は、派閥活動からは身を引いて活動している。
2014年12月14日の第47回衆議院議員総選挙で、12選。
2017年10月22日投開票の第48回衆議院議員総選挙には出馬せず政界を引退[4]。丹羽の選挙区だった茨城6区では、地盤を引き継いだ自民党後継候補の国光文乃が初当選を果たした[5]。
2018年春の叙勲で旭日大綬章を受章。
政策・主張
不祥事
議会活動
政治資金
選挙歴
所属団体・議員連盟
著書
- 『美しく老いるために―日本の医療・年金・福祉への提言』(コープ出版、1994年)
- 『生きるために―医療が変わる』(日経メディカル開発、1998年)
関連項目
脚注
外部リンク
衆議院社会労働委員長 |
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