松本 明子(まつもと あきこ、1966年〈昭和41年〉4月8日[2] - )は、日本の歌手、バラエティアイドル、お笑いタレント、司会者、女優・コメディエンヌ。
本名、平井 明子(ひらい あきこ)。
デビュー時のキャッチコピーは「アッコ、とんがってるね」[3]。
ワタナベエンターテインメント所属[2]。
来歴
高松市立屋島中学校卒業後の1982年3月25日にアイドル歌手を志して上京。1982年、オーディション番組『スター誕生!』第44回決戦大会で松田聖子の曲、「Summer Beach~オレンジの香り~」を歌って合格。これを契機に渡辺プロダクション(当時)入りする。上記オーディションの他の出場者に本田美奈子、徳永英明がいた[注釈 1]。
堀越高等学校に入学後、1983年、VAPから「♂×♀×Kiss(オス・メス・キッス)」でアイドル歌手デビュー。しかし同曲を含めて2曲目、3曲目のレコードも全く売れないまま1年が過ぎる[4]。また、同期のアイドル歌手も特別売れた者がおらず、松本たちは「不作の83年組」と言われた[4](83年組について詳しくは後述)。
1984年4月1日、『オールナイトフジ』1周年記念および『笑福亭鶴光のオールナイトニッポン』10周年記念の共同スペシャル番組の本番中に、女性器の俗称として知られる放送禁止用語を叫ぶという通称四文字事件を起こしてしまう(後述)。これが問題となり仕事が激減、一時期活動停止を余儀なくされる。活動停止後2年ほどして中山秀征にバラエティ班移動を勧められ[5]、活動停止解除以後はバラエティ出演が多くなった[6]。
バラエティタレントに転身
1989年4月より『文夫と明子のラジオビバリー昼ズ』(ニッポン放送)で、放送作家の高田文夫と共にパーソナリティを務める。ビバリー昼ズの担当以降はバラエティー路線に転向。
同時期に出演したフジテレビの『ものまね王座決定戦』では、松居直美・斉藤ルミ子・しじみとさざえ(篠塚満由美・松下桂子)と共に「ものまね女四天王」と呼ばれた[7]。同番組では、1989年と1990年に計2回優勝している(詳しくは、ものまね王座決定戦を参照)。
1990年代前半から始まったバラエティ番組『DAISUKI!』(日本テレビ)、『TVチャンピオン』(テレビ東京)、『電波少年シリーズ』[注釈 2](日本テレビ)にそれぞれ約10年間に渡りMCとして活躍。特に『電波少年シリーズ』の体を張った仕事ぶりで新境地を開き[8]、苦労の末、井森美幸や森口博子と同様に「バラドル」の第一人者として君臨[9]。
1995年、テレビドラマ『たたかうお嫁さま』で主役に抜擢され、その後もドラマに出演。1998年に主演したテレビドラマ『サービス』では、主題歌も担当した。
1998年に6歳年下の俳優・本宮泰風と結婚し、2000年5月に第一子となる長男を出産。同年に育児エッセイ『生んだら無敵』を出版した他、乳幼児医療費無料制度を国に求める全国ネットワークの賛同者となった[10]。
さらに幅広く活躍
2013年11月20日、歌手デビュー30周年を記念して、エイベックスより初オリジナルアルバム『くとうてん』を発売。製作費は、自身の貯金を切り崩して自費で行った[11]。
2016年に女優の筒井真理子と漫才コンビ「つつまつ」を結成し[12]、同年3月26日の「立川志らら 真打昇進披露興行」で漫才を初披露した[13][14]。
2017年12月31日、第1回ももいろ歌合戦に出場(翌年以降も連続出場)。
2018年6月1日、デビュー35周年記念ライブを東京渋谷JZ Bratで開催[15]。昼の部、夜の部共に売り切れとなった。同年11月19日・11月20日にはデビュー35周年を記念して、同期デビューの大沢逸美、森尾由美、桑田靖子、小林千絵、徳丸純子、木元ゆうこを集め、ライブイベント~不作と言われた私たち「お神セブンと申します」~を東京銀座博品館劇場で開催した[16]。
2020年、新型コロナウイルス感染症蔓延の現状を鑑み、ツイッターで「アイドルうたつなぎ」を主宰。2021年1月にライブコンサート「黄金の80年代アイドルうたつなぎ ―うれしなつかし胸キュンコンサート―」として本人の他に布川敏和、森尾、浅香唯、西村知美も出演する予定だった。2021年1月8日、新型コロナウイルスの影響を考慮し、開催が1年延期された[17]。
2021年3月頃から所属事務所に了承を得た上で、副業でレンタカー業を始めた[4][18]。
2022年6月、実家の維持による失敗及び売却までの実体験談と専門家のアドバイスをまとめた著書「実家じまい終わらせました!」を出版し、多くの反響を得た[4]。また、この経験から空き家問題や家の相続などに関するイベントで講演を依頼されるようになった[4]。
2023年9月29日・9月30日、東京銀座博品館劇場にて、83年組デビュー40周年を記念して「お神セブン[19]再結集」開催。
2024年、お神セブンのメンバーのうち、小林千絵(CHIE)、松本明子(AKIKO)、木元ゆうこ(YUKO)の関西由来の3人が、「CHAY(ちゃい)[20]まんねんシスターズ」を結成。2月14日「~CHAYまんねんシスターズ甘く楽しいホワイトデーライブ~」を『ケネディハウス銀座』にて開催。6月1日、第二弾「アイドル☆ナイト#2」を開催[21]
エピソード
子供時代
幼い頃からテレビ好きで[22]、子供の頃は山口百恵やピンクレディーなどのアイドルが好きだった[23]。ただし、幼稚園の頃から酒と歌が好きな父にスナックに連れられ、父の勧めで「津軽海峡・冬景色」や「越冬つばめ」などの演歌を歌っていた[4]。中学生になると松田聖子に憧れ、「聖子ちゃんのようなアイドルになりたい」と思うようになった[22]。
3年生の頃にアイドル歌手を目指して上京を決意するが、父から芸能界入りを反対された。それまで父に逆らったことがない母が、「娘の夢を応援してあげましょうよ」と助言したおかげで何とか許可をもらう[4]。卒業後の上京時は、瀬戸大橋はまだなかったため高松港から宇高連絡船に乗船し[24]、この模様は『ズームイン!!朝!』でも紹介された[25][注釈 3]。出港時に「哀しみ本線日本海」(原曲は森昌子)を歌唱した[24]後、本人によると「6時間かけて船で上京した」という[3][注釈 4]。
売れないアイドル歌手時代
上京後は父親の親戚宅に下宿し、受験して入った堀越高校普通科に通いながらオーディションを受けては落ちる日々を繰り返した[22][26]。この頃『ホリプロタレントスカウトキャラバン』[26]や、芸映主催の「HIDEKI(西城秀樹)の弟妹募集!!全国縦断新人歌手オーディション」の全国大会(優勝は石川秀美)にも出場している。その後『スター誕生!』で合格し、渡辺プロからスカウトを受けてようやくデビューが決まった[4]。
高校2年次から念願だった堀越の芸能コースに編入し、渡辺プロの寮で暮らし始める[26]。デビュー曲のジャケット写真とテレビ番組出演衣装は、当時渡辺プロで売れていたアン・ルイスを手本として、大プッシュされた[26]。しかし、このデビュー曲はオリコン週間チャート最高位131位とヒットしなかった[注釈 5]。
本人曰く、当時は仕事が少なく休まず学校に通ったため、卒業時に皆勤賞をもらったという[27][23]。修学旅行(北海道)も全行程参加し、学級委員も務めるなどしており[28]、教師からは大学進学を勧められた[29]。シングルを何枚かリリースしたほか、リポーターなどの芸能活動をするかたわら、スーパーでのアルバイトなどをする[30]。
放送禁止用語発言
発言時の状況など
1983年、アイドル歌手として伸び悩みを感じていた時に『笑福亭鶴光のオールナイトニッポン』(ニッポン放送)の土曜アシスタントに抜擢。1984年4月1日、同番組が『オールナイトフジ』(フジテレビ)とコラボした、テレビとラジオによる2元生放送に出演し、そこで四文字事件を起こす[28]。
四文字事件の発端は、片岡鶴太郎と笑福亭鶴光に「(当時の)付き合っている男の名前をバラされたくなかったら、カメラに向かって四文字言え」とそそのかされたためだった。本人は後年さらに詳細を語り、「当時、交際していた男性タレントがバイセクシャルとして有名な方だった。それを聞いた鶴光さんと鶴太郎さんから『ゲイと付き合っていると公表されたくないだろう』と言われたため、カメラの真正面で放送禁止用語を発した」としている[31]。
本人は四文字について、「私は四国の方で生まれ育ったので、知らない言葉だった[注釈 6]。口にすること自体に抵抗は無かったですね」と述べている。このため、当時の彼女は躊躇なく言ったもので[6]、本人は後に「3回大声で叫んだ」とも証言している[5]。ただしこの3回のうちテレビで放送されたのは、ラジオとの同時放送パートにおいて発言した1回のみであった[32]。この発言直後、スタッフたちが一斉に顔色を失い、AD複数に抱えられて有無を言わさずスタジオからつまみ出されたという[6][注釈 7]。
周りの反応や芸能活動謹慎について
この発言は時のフジテレビ会長・鹿内春雄の怒りを買い、フジテレビからしばらく出入禁止処分を受けた。また、フジテレビだけでなく東京のキー局の生放送に出られない状態が約2年間続くこととなった[4]。さらに、それまで細々とあった他の仕事もほぼゼロという状態となったが、関西のラジオ番組だけが面白がって使ってくれたという[28][23]。
なお、四文字発言の話題に触れるたび「発言翌日の新聞の社会面に掲載された」と言っているが、新聞の社会面に掲載された事実はない(ノート)。
謹慎生活となることが分かった直後、両親を心配させるため泣きながら電話をかけた。本人は“いつでも帰っておいで”と言われるかと思ったが、事の顛末を知った母はケラケラ笑いながら「良かったじゃない。有名になれて」と告げた。続けて、母から「これからは歌手やアイドルの肩書は脱ぎ捨てて、いただける仕事をコツコツやっていきなさい」と助言されたという[4]。
仕事がなくなったため、以降高校と寮を往復するだけの日々を送った[28]。その後しばらくは今後の芸能生活に悩み、当時住んでいた渡辺プロの寮の最寄り駅である国立駅前のベンチで毎日のように泣いていた[28]。また、同時期に「公園のトイレで寝泊まりしていた時期がある」と本人が証言している。
なお、実際には数か月の謹慎期間を経て、そのきっかけとなった「笑福亭鶴光のオールナイトニッポン」には同年夏に復帰し、他局のラジオ番組やテレビ番組に曜日レギュラーやコーナーレギュラーなどとして同年秋頃から徐々に出演を始めている。
人物
83年組
松本の歌手デビューは1983年(昭和58年)である。同年にデビューした歌手の同期に、森尾由美、大沢逸美、徳丸純子、桑田靖子、小林千絵、THE GOOD-BYE、岩井小百合、いとうまい子、原真祐美、木元ゆうこ 、井上あずみなどがいる[33]。
デビュー当時、前年(1982年)デビューの多数のアイドルが歌番組やドラマなどで活躍していたため、松本や同期のアイドルたちはその陰に隠れてしまった。82年デビューのアイドルが“花の82年組”と呼ばれたのに対し、83年組は後に“アイドル不作の83年組”と総括されるようになった[4]。
2013年、デビュー30周年を迎えた大沢がある番組で「同期に会いたい」と希望し、翌2014年1月に松本や先述の同期歌手のうち森尾、桑田、小林、徳丸、木元と再会[16]。以来、7人の内の誰か舞台やライブを行うと必ず誰かが駆けつけ、たまに皆で集まって飲み会などをするようになった。以後各自がブログで上記のことを掲載すると、それぞれのファンを刺激したことで[16]、2018年の同期アイドルとのライブイベント~不作と言われた私たち「お神セブンと申します」~の開催へと繋がった。
中山秀征との絆
芸能界での交友関係が広く、その中でも事務所の1年後輩の中山秀征とは特に仲が良い。中山のナベプロ入寮時に最初に出会った所属タレントが、風呂上がりで全裸で出てきた松本だった[34]。中山とはすぐに馬が合い、以降の寮生活では毎晩のように彼と会話を楽しむなど交流を深めた[35]。時には諸事情により寮の女風呂が使えず、彼と一緒に男風呂の湯船に浸かったこともある[4]。
四文字事件の頃、「ABブラザーズ」としてブレイクして一躍スターになっていた中山から心配されており[36]、先述の国立駅前のベンチで悩む姿も目撃されている[注釈 8]。後日、中山から「姉さん、歌手班は居心地悪いでしょ。僕のいるバラエティ班に来ない?[注釈 9]」と誘われたことで、バラエティ班となった[28]。後日「この時、中山さんが導いてくれなかったら、とっくに四国に帰っていたと思う」とインタビュー[36]に答えている。
ただし、いきなりバラエティタレントになるのは大変なため、まずはABブラザーズの営業先に同行して前座で歌うことから始めた[28]。それ以外の日は、バラエティタレントとなるための練習[注釈 10]を中山と行い、努力の末バラドルという新しいジャンルを切り開くこととなった[35]。
このため本人にとって、中山は芸能界での恩人である[35]。また中山との関係について本人は、「友達というより姉弟みたいな感じ。タレントとしてはライバルでもあるので、お互いに張り合いながらこれまで頑張ってこれた」と評している[37]。またプライベートでも、結婚の報告を最初に伝えたり、子供が生まれた時は中山家からベビー用品一式を借りるなどしている。他にもお互いに色々と相談事を聞き合うなど、信頼関係はその後も続いている[37]。
その他
趣味は、料理、節約[2]、登山[4]。
特技は、茶道、ピアノ、手芸[2]、節約料理 さぬきうどん作り[1]。
高松に住んでいた頃にNHKの『NHKのど自慢』に出場したことがある[注釈 11]。その直後、ビクターレコードから「演歌歌手になりませんか?」と声をかけられたが、後日その人が急逝したためこの話はなくなった[4]。
高校2年次(芸能コース)の同じクラスには、堀ちえみや早見優がいた[28]。四文字騒動以後の高校生活では、親切心から同級生アイドルたちのために色々と世話をした。一例として、堀の上靴がファンの生徒に盗まれたと知った時は不憫に思い、購買部で代わりの上履きを買って下駄箱に入れてあげたことがある。また定期テスト前には、授業に来られない複数の同級生アイドルたちのためにテスト範囲をまとめた紙を作り、FAXで各芸能事務所に送っていた[4]。
謹慎中だった1986年、「読売巨人軍の原辰徳選手(当時)が“松本明子”と結婚」と報じられた。この女性は同姓同名の別人だったが、当時松本は地元の友人や親戚から「よくやった」、「でかした」などとお祝いの電話をもらい、その都度別人と説明した[3]。
日本テレビのあるスタッフは、ある日フジテレビの『ものまね王座決定戦』で松本と松村邦洋の絡みトークを見て「この2人の組み合わせは面白い」と感じた。これにより松本と松村は、日本テレビの新番組『進め!電波少年』のMCとして起用が決まった[注釈 12]。
『ラジオビバリー昼ズ』では当初、高田文夫は「松本典子と共演する」と思っていたため、スタジオで松本明子の顔を見た途端ズッコケたという[3]。
『進め!電波少年』で話題となった企画として、1995年2月の「アラファト議長とてんとう虫のサンバをダジャレたい!」というもの[注釈 13]がある。当時紛争地帯であるガザ地区へ向かい、パレスチナ自治政府初代大統領を務めたヤーセル・アラファートと日本の芸能人で初めて本人に直接接触した。その後2004年にアラファートが死去した際、日本の要人以外ではナオト・インティライミ(2003年)[注釈 14]と並んで当人と接触した人物として話題となった[38]。
家ではほぼ全裸。夫も息子も呆れているが「仕方ないよね」と諦めている。息子の服を着たり私生活ではあまり贅沢はしない。
家族や実家など
家族・親族
- 松本家
- 曾祖父・松本善六は三重県出身の薬売り[39]。祖父・松本昌次は陸軍大佐で第153師団歩兵第441連隊(敦賀)連隊長を務め、戦後は地元丸亀の足袋の企業「おふく足袋」でセールスマンの仕事に就いた[39]。なお、その際の社員印が、2022年4月1日放送の「学校では教えてくれないそこんトコロ」にて見つかった。父・松本昌昭(2003年に死去)は立命館大学で土木を専攻し、卒業後は香川県庁に務め、後に民間の会社に転職をした[39]。母の千恵子(2007年に死去)の祖母は金刀比羅宮の門前町で芸者をしていた[39]。明子には10歳年上の兄がいる[40]。
- 親戚
- 夫の本宮との出会いは、本宮の実兄である原田龍二がテレビドラマで松本と共演した際、撮影現場へ本宮を連れてきたことから。その日の撮影終わりに3人でお茶をすると原田はすぐに帰ったが、話の流れで本宮に「ウチに来る?」と誘った。これにより松本と本宮でお互いの家に訪れると、親たちから「2人が結婚前の挨拶に来た」と勘違いされた。この結果、本人たちもお互い異性として意識するようになり、短期間で結婚が決まった[23]。
- 原田は戸籍上義兄にあたるものの4歳年下であり、ドラマでの共演経験も多いことから「姉さん」と呼ばれ慕われている。タレントでブロガーの原田愛は義姉。YouTuberの平井一徹は甥。ゲームクリエイターの中村光一は従兄にあたる[41]。
実家
1972年に父はこだわりを持って高松市に家を建て[注釈 15]、松本は6歳から中学卒業までをここで暮らした[42]。上京後27歳の時に両親を東京に呼び寄せると、父は兄(松本から見て伯父)の承諾を得た[注釈 16]上で娘に実家を相続させる手続きをした[注釈 17]。本人はとりあえず実家の維持費を払い始めたが、2003年に父が亡くなる前に「実家を頼む」と告げたため“遺言”と感じ、金銭的負担を感じながらも維持費を払い続けた[42]。
2017年に「実家の片付け」をテーマにした番組出演が転機となり、家を手放すこと(実家じまい)を決意[注釈 18]。その後実家の購入者が見つかり売買契約が成立したが、以後3ヶ月間は両親の遺品を含めた膨大な数の家財道具の整理・処分作業に追われた[42][注釈 19]。2018年に家を約580万円で売却[43]して実家じまいを終えたが、それまでの25年間でかかった維持費など[注釈 20]の総額は、約1800万円にのぼった[注釈 21]。
なお、専門書や文学集など大量の本が見つかったため、それを東京にもっていき売却したが価値がつかなかった。それ以外に、1000冊のエロ本も見つかり、それらについてはみうらじゅんに譲渡したという[44]。
出演
バラエティ・情報番組 ほか
テレビドラマ
ドキュメンタリー
- ザ・ノンフィクション(フジテレビ)
- されど、うどん 完結編(2013年10月20日) - ナレーション
- われら百姓家族〜子どもたちの15年〜(2014年3月2日) - ナレーション
ラジオ
映画
テレビアニメ
オリジナルビデオアニメ
舞台
CM
ショッピング番組
その他
ディスコグラフィー
シングル
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発売日
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タイトル
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c/w
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規格
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規格品番
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VAP
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1st
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1983年5月21日
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♂×♀×Kiss
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ゴメン☆遊ばせて!
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EP
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10085-07
|
2nd
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1983年9月21日
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キャラメル・ラブ
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ピンクのじゃじゃ馬
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EP
|
10110-07
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3rd
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1984年6月10日
|
夏色のギャルソン
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続・竹取物語
|
EP
|
10132-07
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ポニーキャニオン
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4th
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1989年11月21日
|
この恋いけませんか
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嫌われるほど
|
8cmCD
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PCDA-00026
|
5th
|
1990年10月21日
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シンジナサイ?! 〜学生節より〜
|
想い出まくら
|
8cmCD
|
PCDA-00119
|
アッコちゃん音頭
|
6th
|
1994年3月21日
|
たとえば、ずっと…
|
ネコなんだもん
|
8cmCD
|
PCDA-00551
|
VAP
|
7th
|
1998年2月18日
|
soon
|
静かなまぼろし
|
8cmCD
|
VPDC-20746
|
8th
|
1999年5月12日
|
ステラ
|
Last Words
|
8cmCD
|
VPDC-20795
|
企画シングル
名義
|
発売日
|
タイトル
|
c/w
|
規格
|
規格品番
|
発売元
|
峰竜太 & 松本明子
|
1992年12月2日
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ざけんじゃねぇぞ
|
ざけんじゃねぇぞ (オリジナル・カラオケ)
|
8cmCD
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PCDA-00393
|
ポニーキャニオン
|
ヤクル党
|
1993年4月7日
|
進め!ヤクルトスワローズ
|
FOREVER DREAM
|
8cmCD
|
PCDH-12
|
松本明子with
杉岡弦徳
|
2019年12月11日
|
歌謡組曲「恋猫」~猫とあたいとあの人と~
|
01涙猫、02港猫、03じゃれ猫、04夢猫、05星猫、他5曲
|
8cmCD
|
TECE-
3577
|
テイチクエンタテインメント
|
アルバム
オリジナル・アルバム
ベスト・アルバム
発売日
|
タイトル
|
規格
|
規格品番
|
ポニーキャニオン
|
2010年5月19日
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Myこれ! Lite 松本明子
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CD
|
PCCS-00143
|
参加作品
発売日
|
作品
|
参加曲
|
概要
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1990年10月21日
|
決定版! 魔獣戦士ルナ・ヴァルガー 主題歌全曲集
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「魔道都市音頭」
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OVA『魔獣戦士ルナ・ヴァルガー』関連曲
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未CD化楽曲
- 青春大関 ※OVA『気分は形而上 実在OL講座』主題歌
タイアップ曲
著書
- 『生んだら無敵 松本明子の出産エッセイ』(2001年、小学館)
- 『腸をキレイにしたらたった3週間で体の不調がみるみる改善されて40年来の便秘にサヨナラできました! 腸活で人生変わりました!』小林弘幸監修(2015年、アスコム)
- 『実家じまい終わらせました! 大赤字を出した私が専門家とたどり着いた家とお墓のしまい方』(2022年、祥伝社)[49]
脚注
注釈
- ^ ともに失格となったが、後に別口でスカウトされた。
- ^ 同シリーズの内、第1作『進め!電波少年』、第2作『進ぬ!電波少年』、第3作『電波少年に毛が生えた 最後の聖戦』に出演。
- ^ その際リポーターから「今、歌手を夢見て上京する一人の女の子が、連絡船に乗っています」と中継された[26]
- ^ 宇高連絡船は四国と本州・岡山県を往復していた模様。この時だけ特別に東京まで乗せてくれたのか詳細は不明。
- ^ デビュー曲について本人は後年、「アイドルソングというより、ちょっとロックテイストのある曲だった。田舎育ちの私にロックは無理があった」と回想している[26]。
- ^ 松本の出身県である香川を含めた四国の方言では女性器外陰部を『おそそ』『おちゃこ』などと呼ぶ。
- ^ 一方鶴光、鶴太郎はこの一件で東京のテレビ局や番組制作会社から“下ネタ系要注意タレント”とレッテルを貼られた。また世間からは、“松本明子をアイドルからお笑い芸人に転向させた張本人”と揶揄された。
- ^ ただし、松本自身は中山に見られたことは当時気づいていなかった[36]。
- ^ 松本によると、当時の渡辺プロはタレントによって歌手班、ドラマ班、バラエティ班に分かれていたとのこと。
- ^ 具体的にはバラエティ向きの発声の仕方、エピソードトークの練習(1週間の出来事を中山などに楽しく話す)、中山やホンジャマカを交えてのコントの練習等[36]。
- ^ 本人は中学生だったが、当時『のど自慢』は高校生からしか出場できなかったため、年を誤魔化しての出場だった[23]。
- ^ ただし、番組が始まる時点では、諸事情による3ヶ月間だけの穴埋め番組だった[4]。
- ^ アラファトとデュエットで、てんとう虫のサンバ(チェリッシュ)の替え歌で「♪アラファト わたしが 夢の国〜」と歌う企画だった。
- ^ ナオトは、2003年8月~2004年末までの515日をかけて世界28ヶ国一周放浪の旅を行った。その道中アラファトに会いに行き、彼の前で『上を向いて歩こう』(原曲は坂本九)を歌唱した。
- ^ 家を建てる際、父はわざわざ宮大工に頼んで木組み(釘などの金属を一切使わずに建てる伝統工法)で建ててもらい、庭には大きな庭石や石灯篭を置き、家の周りに石垣を作るなどした。
- ^ 兄は実家に3年弱しか住んでおらず、上京後に家庭を持って新築の家を購入した。
- ^ 本人によると、「父は実家にすごく思い入れがあったので、自分が生きた証として家を残したかったのだと思います。また、両親は浮き沈みの激しい芸能界に身を置く私を心配して、万が一仕事がなくなった時に高松で暮らせるようにと思ったようです」と回想している[42]。
- ^ その番組はNHKの『クローズアップ現代+』で、高松に縁のない息子に将来迷惑がかかることに気づいた[42]。
- ^ 生前父は読書好きだったため、約2,000冊もの様々なジャンルの本を遺していた。中には昔の女優のヌードグラビアが載る週刊誌やエッチな雑誌も沢山あったが、それらはみうらじゅんが喜んで引き取ってくれたという[4]。
- ^ 主なものとして維持費(固定資産税・火災保険料・光熱費等)年約30万円×25年、リフォーム代約600万円の他、家財道具などの処分費用、その作業のための高松までの交通費・宿泊費など。
- ^ 本人はその後、「実家を維持するか処分するかを迷っている人には、私のようにしくじらないよう、なるべく早く家族で話し合うなど行動を起こしてほしい」とアドバイスしている[42]。
出典
関連項目
外部リンク
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シングル | |
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主な出演テレビ番組 | |
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主な出演ラジオ番組 | |
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関連人物 | |
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関連項目 | |
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男性タレント | |
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女性タレント | |
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お笑い芸人 | |
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ミュージシャン | |
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文化人 | |
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アスリート | |
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旧所属タレント | |
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系列事務所 |
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関連人物 | |
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★は九州事業本部、▲は関西事業本部、△は名古屋事業本部所属。 |
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1970年代 | |
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1980年代 | |
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1990年代 | |
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2000年代 | |
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2010年代 | |
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2020年代 | |
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総合司会・出題・海外リポーター |
第1回 - 第14回・今世紀最後・史上最大の敗者復活戦 福留功男1 / 第15回・第16回 福澤朗 / 史上最大の敗者復活戦関西地区予選 小林大作
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国内リポーター |
第1回 - 第11回・今世紀最後・史上最大の敗者復活戦 徳光和夫 / 第12回 - 第16回 渡辺正行
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海外リポーター |
第9回・第10回 日高直人 / 第11回 増田隆生 / 第12回 - 第14回 小倉淳 / 第14回 鈴木健
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コンピューター予想 | |
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総合司会 | |
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関連項目 | |
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関連人物 | |
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総合司会 | |
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メインパーソナリティー | |
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関連項目 | |
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関連人物 | |
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1:第15回も第1問まで担当、2:第1回のみ肩書は「アシスタント」、3:第2夜のみ |
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関連項目 | |
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前身番組など | |
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パネリストのうち一部は曜日企画を兼務。(女性芸人) はいずれも不定期出演。 曜日は太字で表記。パネリスト、曜日企画などの担当は、担当出演者の前もしくは後ろに表記。 水曜日は曜日企画が二つあり、隔週交代で放送されている為に曜日企画担当者としては共演していない。ハライチの担当企画は (水曜日A)。ヨネスケの担当企画は (水曜日B) と表記する。 神田沙也加とヨンアは、隔週交代で出演。 |