六代目 澤村 田之助(さわむら たのすけ、新字体:沢村、1932年〈昭和7年〉8月4日[1] - 2022年〈令和4年〉6月23日)は、歌舞伎役者。屋号は紀伊國屋、定紋は釻菊、替紋は波に千鳥。舞踊の名取名は藤間 勘之(ふじま かんじ)。本名は山中 宗雄(やまなか むねお)[1]。重要無形文化財保持者(人間国宝)[1]。
人物
父は五代目澤村田之助。第二次世界大戦中に一家で静岡県田方郡伊東町(現:伊東市)に疎開していたため、静岡県立伊東高等学校に通った(後に中退[1])。
七代目澤村宗十郎の芸を受け継ぐ女形として活躍したほか、1984年から国立劇場歌舞伎俳優養成の講師を務め[2]、
2003年から2013年1月までは横綱審議委員会の委員を務めた。
2022年6月23日、肺炎のため東京都内の病院で死去[3]。89歳没。死没日をもって従五位に叙された[4]。
年譜
好角家としての一面
六代目田之助は幼少の時に六代目尾上菊五郎に国技館(戦前の旧両国国技館)へ連れられ、初めて相撲を観戦した。その日は横綱・双葉山定次が安藝ノ海節男に敗れて70連勝ならずという歴史的な日(1939年1月場所4日目)であったことをのちに語っている[7]。
長じてからも本業の歌舞伎の舞台の合間に国技館へ通うなど好角家として知られるようになり、2003年に日本相撲協会からの委嘱を受けて横綱審議委員会委員に就任。相撲への愛情から角界に対して数々の提言・苦言を呈するなどしている[8]。在任中は度々北の湖理事長に対して本場所を年4回に減らして力士の負担を軽減するように提案していた[9]。
2010年、朝青龍が不祥事の責任を取って引退した直後にハワイを訪れ、その後にモンゴルで会見を開いて相撲協会への不満を表明した際には「実に傍若無人でとても不愉快に感じた。お客さんもそう思ったから、大阪場所も彼がいなくてもにぎわったんじゃないですか」と不満を爆発させ、引退相撲が計画されていることについても「横審が協会に中止を要請することはないですが、私は反対です」と話した[10]。
著書
脚注
外部リンク
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太字は恩賜賞受賞者。名跡は受賞時のもの。表記揺れによる混乱を避けるため漢字は便宜上すべて新字体に統一した。 |