B&B (ビー アンド ビー)は、日本 の漫才 コンビ。広島県 広島市 出身の島田洋七 (しまだ ようしち、1950年 2月10日 - )が、相方を4度変えたコンビ名である[ 1] 。本稿は特に岡山県 笠岡市 出身の島田洋八 (しまだ ようはち、1950年 2月13日 - )と組んだ三代目B&B[ 1] について詳述している。このコンビの東京進出が漫才ブーム を誘発・点火させた[ 出典 1] [ 注釈 1] 。
コンビ名「B&B」は、洋七が昔アルバイト していた大阪 宗右衛門町 のディスコ の店名を勝手に拝借したもので、特に意味はない[ 11] 。
経歴
初代B&B
二代目B&B
三代目B&B
洋七は漫才は諦めようかと悩んだが、花月劇場の幕引き、進行役をしていた島田洋八 を、また三枝が「あの人はどないや。」と薦めるので洋八を口説き1975年9月、三代目B&Bを結成[ 出典 15] 。「七転び八起き」または「七転八倒」から、それぞれ洋七・洋八に改名。この命名は師匠の島田洋之介 [ 15] 。紳助は「洋七の相方が洋八になって戦力は落ちた」と述べている[ 36] 。
結成二年目の1977年 には第6回上方お笑い大賞 銀賞を受賞[ 24] 。翌1978年 には第13回上方漫才大賞 奨励賞を受賞するなど実力が認められた。こと劇場内で笑いをとることにかけてはB&Bは、一、二を争っていた[ 37] 。
しかし当時は関西でも演芸番組が激減していた時代[ 出典 16] 、B&Bが売れっ子になるという訳ではなかった[ 出典 17] 。1978年に吉本に入社した大﨑洋 は「僕が吉本に入った頃は、やすきよ さんの稼ぎで社員が食べられていた規模でした。漫才ブームの前で、劇場には『悪場所』の雰囲気がぷんぷん。滅び行くものを芸人さんと走りながら売っていくんやな、と最初に思いましたね」などと述べている[ 39] 。新野新 は、B&Bを当時から高く評価し、「久方ぶりの上方漫才の収穫といわれながら、仕事がないという彼ら。B&Bくらい面白くなった漫才なら、どんどんテレビへ出て、もうとっくに茶の間 のおなじみになっていいはずだが、時期が悪いといおうか、B&Bがテレビに出演することは、めったにない。それにしても、売り出す、ということはむずかしいことだと改めて思う」などと著書で述べている[ 出典 18] 。
1979年 、「ヤングおー!おー! 」(MBS 制作)のチンチラチンコーナーにレギュラー抜擢されなかった事が原因で大阪の活動に限界を感じる(詳細は後述 )。この事が最終的に決断した理由だが、頑なに東京行きを決行した理由を洋七は幾つか異なる説明をしている[ 13] 。一つは当時の吉本興業には、やすしきよし 、Wヤング 、中田カウス・ボタン といったそうそうたる売れっ子がズラリといて、どんなに賞を獲ったとしても、自分たちは野球でいえば二軍、いつかはおハチが回ってくるかもしれないが、ボクは待ちきれなかった[ 41] 。また当時の大阪の若手実力漫才コンビの中では、ほぼ唯一の"非関西圏"の出身でもあり、大阪にいるあいだは"ヨソもん意識"があって大阪に執着は無く、東京なら"ヨソもん"の集まりだからいいだろうと考えたこと[ 出典 19] 。「僕ら広島と岡山の出身やから、大阪で働くのも東京へ行くのも、根本的には違いない」[ 29] 、「一部から認められているのだが、いっこうに売れない。生活だって楽ではない。そんな焦りから気分を変えるために東京に出た」[ 29] 。他に星セント・ルイス が大阪の東西対抗というテレビ番組にやってきて、西の代表として迎え撃ったが、笑いでは自分たちが勝っていた。セント・ルイスの人気をみて、東京に行った方が売れるんじゃないかと思ったこと[ 出典 20] 。また、大阪では結構売れっ子となっていたのに、郷里の広島や、祖母のいる佐賀ではほとんど知られておらず[ 出典 21] 、「いくら売れても大阪ローカルではダメ、東京発の全国ネットのTV番組に出演しなければ意味がない」と悟ったこと[ 出典 22] 。他にも、この頃から付き合いのあったビートたけしから「東京に来いよ」と言われていた[ 43] 、Wヤング の平川幸男に「お前らなら売れる。東京に行け」と勧められたという話もある[ 47] 。友人でもあり、ライバルでもあったザ・ぼんち・里見まさと は、「洋七は以前から、このままではいかん。東京に出たい、出たいと言っていた」と話している[ 48] 。これらの理由から東京で活躍したいという野望が沸く[ 49] 。東京進出を洋八に話すと二つ返事でOKと言った[ 23] 。洋七は大阪の芸人が東京に進出したのは僕らが初めて」と延べている[ 23] 。上京前日、洋七のアルバイト 先のスナック を訪ねた親しい大阪新聞 記者 に洋七は、「俺は腕はある。自信もある。けど、どこで漫才やったらええねん」と吐露した[ 7] 。これが当時の漫才の置かれた状況[ 7] 。洋七の言葉は、当時の若手漫才師みんなの代弁だった[ 7] 。上方漫才界のガスは十分に充満していた[ 7] 。
漫才ブーム
東京の漫才協団 に加入し戸崎事務所に移籍[ 出典 26] 。東京の業界はB&Bを概ね好意的に受け入れた[ 61] 。このため吉本は円満退社だったという説がある[ 28] [ 注釈 5] 。浅草松竹演芸場 に当初ノーギャラで出演。B&Bの名前は東京の関係者には轟いており、観客がまばらなのに偵察に来た東京の若手芸人達が立ち見に並んだ[ 出典 29] 。自身もこれを見たというラサール石井 は「何より凄かったのは洋七さんのテンポ、速射砲のような喋りとパワーあふれるツッコミ」「しかも画期的なことは、出番でない他の芸人達がB&Bが出ると楽屋から出てきて客席の後ろの方で大笑いしていた」と話している[ 64] 。同業者にはウケないのが普通なのである。それほど売れていなかったツービート のビートたけし もまた、洋七の“言葉の連射攻撃”“客を完全に飲み込んで唖然とさせる漫才”を見て衝撃を受け、スピードを早め、たけし一人が喋りまくるスタイルへ変更した、と著書『浅草キッド』に記している[ 出典 30] 。ツービートの看板ネタ「山形いじめ」は、B&Bの「広島vs岡山ネタ」を真似たもので[ 45] 、借用元のB&Bの上京以降「山形いじめ」ネタを封印せざるを得なくなり、それがツービートの過激度を一段と高めることになった[ 出典 31] 。こうして東京でも瞬く間に高い評価を得て、漫才協団幹部の内海桂子 が「よくもこんな(凄い)人を吉本がくれたわね」と驚嘆した[ 44] 。
1980年 1月、澤田隆治 プロデュースによる「花王名人劇場 」(関西テレビ )「激突!漫才新幹線 」に大抜擢され出演[ 出典 32] 。この番組はゴールデンタイム の1時間枠をMC 無しで、B&Bとやすしきよし 、星セント・ルイス の三組が、おのおの10数分間の持ち時間で漫才のみをする、という当時としても画期的で、勿論現在のゴールデンでも見られない形態のものだった[ 出典 33] 。当時のテレビでの漫才は、お昼の演芸番組(『大正テレビ寄席 』など)や、正月の寄席 中継、タレントのかくし芸等で3分とか5分とかにコマ切れして見せるもので[ 出典 34] 、この頃はコント が非常に人気があり、特に東京では漫才はコントや落語 に比べて影が薄い、古臭いイメージだったのである[ 出典 35] 。関西でも同様で、極端にいえば、漫才は年寄りの娯楽に過ぎないイメージで[ 出典 36] 、当時は演芸番組自体が激減していて、大阪でも漫才だけという番組はなく、テレビ局全体で週1〜2本が細々と残っているだけという状況でゴールデンではほとんど漫才は無かった[ 出典 37] 。ましてや若手漫才師が全国ネットのゴールデンに出演することなど無かった[ 出典 38] 。吉本興業 の木村政雄 は「若者はゴールデンタイムに漫才なんて見たことがなかったと思う」と述べている[ 52] 。また漫才と言えば、スーツ や派手なタキシード 、蝶ネクタイ 等を着用し、年期の入った掛け合いを見せる、というものだったが[ 出典 39] 、TシャツにGパン、長髪の今風の若者が、掛け合いを無視したボケ の一方的なしゃべりで、広島や岡山など地方をネタにした郷土ギャグを、体を使ったオーバーアクション、一発芸を駆使してみせるという高速漫才[ 出典 40] は、従来の漫才とは違うとても新鮮なもので[ 注釈 6] 、やすきよにも一歩も引かない姿は大きな反響を巻き起こし[ 出典 41] 、一夜にしてスターダムにのし上がる[ 出典 42] 。"16ビート "の"マシンガン漫才"が初めて全国のお茶の間に届けられた[ 出典 43] 。
こういったスタイルは多くがその元祖、草分けといえるものであり、現在もお笑いの基本となっている。元々、この企画はタイトル通り、東京代表の星セント・ルイス と、大阪代表のやすしきよし の激突で、広島vs岡山ネタをやっていた新人のB&Bは"つけ合わせ"としての出演だった[ 78] 。この千載一遇のチャンスをB&Bはモノにした。長らく司会に専念していたやすしきよしが、長い漫才をやるという話題性もあって「激突!漫才新幹線」は高視聴率を稼ぎ、これが各局とも漫才番組を製作する切っ掛けとなった[ 出典 44] 。洋七は「『激突!漫才新幹線』の時は、僕らが一番売れておらず、伸び伸びとできた。お客さんも新鮮に感じたんやろね、ドッカン、ドッカン受けた。終了後、舞台のそでで横山やすし師匠に『お前ら、売れるで』って言われて、ものすごくうれしかったね。ブームが起きるなんて、全然思わなかった。全国ネットで夜9時やから、名前ぐらいは知ってもらえるやろうと。放送翌日にCMの話が来て、びっくりしたわ」などと話している[ 出典 45] 。『激突!漫才新幹線』放送から2ヵ月後の1980年3月の土日 に「花王ヘアケアまつり 」のイベント に出演し[ 31] 、それまでの営業 のギャラ の12倍が貰えて「これは凄いことになったなあ」と実感した[ 31] 。また漫才番組はドラマ と違って、企画を立てて1週間後に放送できるというお手軽さもあった[ 出典 46] 。同年4月から始まった『スター誕生! 』のお笑い版[ 31] 『お笑いスター誕生!! 』(日本テレビ )でも、先兵役を務めて、ケタ違いの実力を見せ、ストレートで10週を勝ち抜き初代グランプリとなり大ブレイク[ 出典 47] 、漫才ブーム を引き起こす[ 出典 48] [ 注釈 7] 。B&Bやツービートら、当時の若手たちが"上の世代"とは違った漫才を提示したからこそ、世間から注目を浴びた[ 8] 。お笑い芸人で初めて化粧品洗剤業界のCM(花王 ハイトニックシャンプー )に抜擢されたのも、B&Bは単なるお笑いのイメージとは違う、新しいタイプのタレントとして見た当時の花王副社長・佐川幸三郎によるものであった[ 出典 49] 、お笑い芸人で初めて客席からテープが飛んだ[ 99] 。『月刊平凡』1980年10月号で紳助・竜介 と共に漫才師として初めてアイドル誌のグラビア (「対談超特急(3) / B&B 紳助・竜介」)を飾った。サイン 色紙 を手にした女子中・女子高生 が演芸場 のロビー に列をつくり出待ち した[ 出典 50] 。漫才には縁遠かった女子中高生など[ 31] 、最初に女性ファンを呼び込み[ 出典 51] 、ファン 層を一変させ[ 31] 、お笑い芸人をアイドル 化させた功績は計り知れない[ 出典 52] 。
漫才師で初めて全国ネットのレギュラー『笑ってる場合ですよ! 』の総合MC を務めたのも、B&Bが一番人気があったからである[ 出典 53] 。人気の過熱で毎日スタジオアルタ からの公開 生放送 だった1981年1月15日(成人の日 )では、定員をはるかに超える観覧希望者が殺到して将棋倒し になり、2人が負傷した[ 31] 。翌日の放送は番組初の無観客放送となり、B&Bは自分たちの不手際ではなかったが、生放送で頭を下げた[ 31] 。『サンデー毎日 』1981年1月4日・11日合併号の「ニュー漫才 東西の人気コンビ名鑑」という記事のB&Bの紹介に「大阪にいるころはパッとしなかったが東京に出てくるやたちまち大当たり、一躍人気ナンバーワンとなる。"これが青春だ" "広島名物もみじまんじゅう"など数々のギャグ やアドリブ 、早口言葉 で文字通り体当たり演技」と書かれている[ 105] 。ビートたけしは著書『たけし吼える!』で「漫才ブームのころさ、オレ自分で考えてみたわけ。B&B、紳助・竜介とかいただろ。どう考えても四番手くらいだったのよ。ツービートって」と述べている[ 106] 。B&Bは漫才ブームの最大のスターであった[ 107] 。洋七は「あの時期、爆発的に売れてるアイドルがいなかったんです。それで、騒ぐ対象がないから漫才師に向けられたと思う」と解説している[ 108] 。たのきんトリオ がブレイクする直前のエアポケット 状態の時期であったかもしれない[独自研究? ] 。
絶頂期
解散、個々での活動(4代目B&B)
しかし、この人気が原因で漫才のネタを考える時間が無くなり(移動時が唯一睡眠出来る時間だったと言われている)[ 出典 62] 、同じネタを繰り返し使うようになって、徐々に観衆から飽きられるようになってしまう[ 出典 63] 。事務所が小さく、来る仕事は全部受けて、自身もすり減った[ 出典 64] 。時代の寵児となったB&Bは全てを出し尽くし、誰よりも早く飽きられた[ 31] 。舞台に立つ度に空席が目立つようになった[ 31] 。今日は1,000人、明日は100人と『そんなアホな』みたいに急激にお客が減った[ 31] 。最盛期には警備員 20人が500人の出待ちの女子中高生に「押さないでください!押さないでください!」と絶叫していたが、気付けば警備員20人がファン20人に叫ぶという滑稽な状況になった[ 31] 。ビートたけしは「B&Bとかザ・ぼんちとか、漫才ブームのなかのトップを目指したから潰れてしまったわけね。オレは漫才ブームのときには、自分で1位になってやろうなんて思ってなかったから。そのときから違うことやろうと思ってたからね。その後の勝負だとおもっていた」と述べている[ 123] [ 注釈 9] 。1981年 5月から始まった『オレたちひょうきん族 』(フジテレビ )では、B&Bは裏番組の『爆笑ヒット大進撃!! 』(日本テレビ )でレギュラーを持っており『ひょうきん族』への参加は半年遅れ、その頃には既にビートたけし と明石家さんま がメインになっておりB&Bは完全に脇にまわった[ 125] 。1982年 の『笑ってる場合ですよ!』終了と同時に人気が急降下[ 13] 、1983年 秋にB&Bを解散[ 出典 65] 。レオナルド熊 は「B&Bの看板さえかけてりゃ、まだまだ稼げるハズなのに、年収1億円をフイにしちまった。いい度胸してるね。もっとも広島のもみじまんじゅう屋は、真っ青になってるらしいよ」などと評し、坂本スミ子 の大麻事件に次ぐ 1983年芸能界10大ニュースの第2位に挙げた[ 127] 。テレビ・ラジオの露出こそ減ったが、劇場や地方営業などではまだ充分に稼げる状況であった。
B&Bは関西育ちの漫才コンビではあるが、当時は「漫才ブーム・東の主役」とも[ 128] 、「東京漫才御三家」ともいわれていた[ 128] 。吉本興業は当時、演芸場を三館経営し、テレビもラジオも制作していたため、西の漫才師はまず演芸場に出して、テレビで顔を売って、人気が無くなれば、また演芸場に戻すという「還流システム」を成功させていた[ 128] 。これに対して東の漫才師にとっては厳しい時代であった[ 128] 。東の常打ち演芸場は1980年8月に日比谷東宝演芸場 が閉鎖されて以降、浅草松竹演芸場 一館しかなく、しかも東京は落語 が強く『色物 』と呼ばれる漫才は漫談 や奇術 などと同じく添え物扱いを受け、寄席と落語協会 、落語芸術協会 の間には興行協定が結ばれ、漫才師などはその落語二協会の同意がなければ、寄席に出られない仕組みになっていた[ 128] 。そうした事情もあって1980年当時、東京の漫才コンビは60組程度であった[ 128] 。更に浅草松竹演芸場も浅草六区 の再開発で1983年11月に閉鎖が決まっていた[ 128] 。B&Bの解散で「東京漫才御三家」は全て漫才を放棄した[ 128] 。洋七は精神的な理由で6年間の休養生活に入り、表舞台から姿を消した[ 出典 66] 。
個々での活動は島田洋七 、島田洋八 を参照 。
洋七は漫才スタイルのヒントにした「ケンケン・てるてる」の「ケンケン」こと国分健二 (元・浮世亭ケンジ)を東京に呼び寄せ、新たに「スティング」を結成[ 20] 、抜群の面白さを見せたが、所属事務所の力も弱かったためか、テレビではそれほど出演することが出来なかった。テレビ朝日 『トゥナイト 』のレギュラーになるも、すぐに吉本興業の新人タレントにその座を奪われた。再びB&Bと改名するが、解散。間寛平 とも漫才コンビを組むがうまくいかず、1991年 、『1991真夏大阪漫才格闘技バトルロイヤル』で8年ぶりに(3代目)B&Bを再結成させた。しかしまたも解散。親友のビートたけし の番組『北野ファンクラブ 』で番組内限定の漫才コンビ“B&BEAT”でたけしとともに漫才のカンを維持、その後1996年 に洋八と再々結成して吉本興業に復帰。復帰当時は駆け出しからの出直しを誓い、トップバッターを受け持ち、「もみじ饅頭」等のギャグを封印。正統派漫才で見せると公約した。吉本所属時にはなんばグランド花月 他で月替わりのレギュラー出演、スピード感溢れる掛け合いは色あせていなかった。一時期封印していたかつてのギャグは後に解禁した。
評価
島田紳助 は「漫才ブーム で新しいことをやったのは、B&Bとツービート 、紳助・竜介 だけ。ほかは前からあったもの[ 132] 」「漫才ブームは、B&Bとツービートと紳助・竜介が作ったんです。時代を作った3組、ルーツは一緒なんです。漫才ブームが興ったときに、今までの漫才と違う形の漫才が始まるんです。それまでの漫才はネタフリがあって、一個のネタでちゃんと起こしていくんです。この3組に共通してるのは、全く違うシステムなんです。それまでの漫才の形と全く違うシステム、ツッコミボケ という新しい分野であり、1人が完璧にネタの九割喋るんです。で、誰がこれを編み出したかというと、最初は松竹芸能 のケンケン ・てるてるという方が、それをちょっとやったんです。それを見た島田洋七がパクったんです。これが自分に合うと思ったんです。その洋七さんを見てたけしさんも"これや!"ってパクったんです。そして高校三年生の僕が洋七さんを見て『今までの漫才なんか全然おもろない。これからはこれや!』ってこの世界に入ったんです。僕もツービートも全然売れてない時、東京の漫才コンクールでたけしさんに会ったんですが、たけしさんの言葉未だに忘れられません。『B&Bに似てるね』って。そんとき『はい』って言いながら心の中で、おまえらもやないかい、と叫びました」と話している[ 133] [ 注釈 10] 。
ビートたけしは「漫才だけは洋七に勝てなかった」「漫才ブームは洋七が作った」などと話している[ 出典 73] 。
1993年7月2日にテレビ朝日系 で放送された、漫才ブームを振りかえる『驚きももの木20世紀 』「漫才ブームの真実」という番組では、洋七とぼんちおさむ の眼を通しての漫才ブーム、という構成が取られていたが、この中で洋七は「漫才ブームは去ったけど、その中にビートたけしや島田紳助みたいな、とてつもない天才がいた、発見できたことが嬉しい。それは誇りですよ。漫才ブームが無ければ二人は無かったわけだから」と話した。洋七は「俺らたぶん、芸能史上いちばん忙しくなって、急にあかんようになった日本一だね。漫才ブームをマラソン に例えると、アホな俺らはスタートから国立競技場 のトラック を全力疾走したようなもん。それで沿道に出た途端、息切れしたんや。俺も嫁さんも家出少年、家出少女 やったんです。そんなんが都会暮らしに憧れ、大阪に出て漫才に出会った。そして東京に出て花が咲いた。一回売れただけで儲けもんよ。ブームが続いたらよかったなあ、なんてこれっぽっちも思わないよ」などと話した[ 31] 。漫才ブームを境にそれまで芸能界のヒエラルキー の下位にいた芸人たちは憧れのスターになった[ 31] 。「冷飯食いの漫才師が天下を獲る」そのサクセスストーリーを最初に実現させたのがB&Bだった[ 31] 。関西芸人が、東京へ進出してブレイクし、MC番組 を持つ、今日では当たり前となっているこうした流れをつくったのはB&Bである[ 5] 。
浅草キッド は「漫才師」という一見愚にもつかない職業を、あの80年代初頭の空前の“漫才ブーム ”の到来とともに、キラ星の如くスターが輝く芸能界のなかで眩しいほどの光明を誇る一等星 に押し上げたのは、紛れもなくビートたけしと島田洋七であると話し、「俺たちがこの世界に飛び込んだのも二人に魅入られて決めたようなもの」と述べている[ 134] 。
木村政雄 は「漫才の歴史を振り返る上でキーポイントになるのは、やっぱり'80年に起こった『漫才ブーム 』。ピークは2年間くらいやったけど、これで漫才師の認知度が一気に高まった。大阪でくすぶっていたB&Bが東京に出て、お笑いを盛り上げてくれたのも大きかった」と述べている[ 42] 。「お笑い」関係の多くの著書があり、漫才ブームにも係わった井上宏 は、「B&Bが東京で大活躍しなければ、漫才ブームも起きなかったかもしれない」と述べている[ 37] 。また『笑点 』のチーフ作家・遠藤佳三も「B&Bの東京進出がなかったら、若手漫才ブームは、もっと小さなもので終わっていただろうと思う。B&Bは東京人に上方漫才 の面白さを改めて吹き込み、関西弁に違和感をおぼえる人々にも、こと漫才だけは抵抗なく受け入れてもらえる素地を作ったのである。その素地がなければ、大阪のニューウェーブ漫才は、そう簡単に東京に進出できなかったはずだ」と論じている[ 44] 。関西弁(近畿方言 )の全国普及は漫才ブーム以降の関西お笑いタレント の東京進出の活発化によってより広まったものだが[ 出典 74] 、その嚆矢 は非関西人のB&Bである[ 135] 。B&Bの漫才は、老若男女誰にもわかりやすく親しみやすかった。また非常に陽気で愛敬があり言葉の毒を中和 して、若い視聴者を関西弁の笑いに馴染ませ素地作りに貢献したのである[ 44] 。B&Bは、大阪の笑いをテレビを通じて全国区にし、後進への道筋をつけたといえる[ 137] 。洋七自身、「漫才ブームの遺産と言えば、関西弁が全国に認知されたことでしょう」と話している[ 138] 。
芸風
それまでの息と間を大切にするしゃべくり漫才ではなく、コンビの2人が掛け合いをしないで、ボケ がお客に息つく暇させ与えずに一方的にしゃべり、そのスピードとリズムで笑いを増幅させ、唐突に「もみじまんじゅうー!」という大げさな決めゼリフ にアクションを繰り出し、爆笑の渦を巻き起こすB&Bの漫才は、全てが新しいスタイルだった[ 出典 75] 。それまでの"8ビート "から"16ビート "に上げたといわれるB&Bの"マシンガン漫才"は、同時代の漫才師に大きな影響を与えた[ 出典 76] 。漫才ブームの特徴であるテンポの速い漫才はB&Bが与えた影響といわれる[ 出典 77] 。コンビとの掛け合いではなく一方的に"マシンガントーク"をかますスタイルを完成させたのはB&Bである[ 出典 78] 。洋七は「もともとそういうスタイルはあったんだけど世に出したのは俺やろうね。で、たけしがそれに続いた」と述べている[ 93] 。澤田隆治 はB&Bについて「うまいも何もないですよ。とにかくギャー!と攻めて行くという、だからボクシング でいえば、カー!と打ち合ってる感じ。そういうのは無かったですよ。だから、これは漫才を変えれたなと思う」と述べている[ 9] 。澤田は「B&Bの人気爆発によって、自身が温めてきた若手、紳助・竜介 、オール阪神・巨人 、のりお・よしお 、ゆーとぴあ などを登場させた」と述べている[ 72] 。
紳助は、「洋七はケンケン・てるてるをパクった」と話したが、洋七自身は著書で「逆説的に聞こえるかもしれないが、人から『似てまんな』と言われない為に、そして自分たちの芸で客を笑わす為に、芸人諸兄、諸先輩方の芸を徹底的に見て、徹底的に盗んだ。それらの良さを貪欲にパクり、自分たちの中で消化吸収して、B&Bと言う新しい果実を実らせたと言っても過言でない。4コマ漫画 のように漫才が絵としてイメージ出来る。テンポが速く、喋りは明快でキレがある。視線を吸い寄せる派手なアクションがあり、オチもドッカーンと決まる。だから、B&Bは当たった」と解説している[ 141] 。2013年 3月24日 に放送された『漫才歴史ミステリー 笑いのジョブズ 』(朝日放送)で、"マシンガン漫才"のルーツは何かとの質問に対して洋七は「B&Bの最初の相方が松竹芸能 に面白い漫才師がいるから見に行こう、勉強になるからと誘われて見たのが、ケンケン ・てるてるで、こういう漫才もあるんだと驚いた。ネタフリが少なくて(テンポ)が速い。じゃあ俺らもこんなパターンをやろうと。要するにいとし・こいしさん みたいな漫才をやると年数かかる、上手すぎて。年数もかかるし出来んかも分からん。オチさえしっかりいとけばネタフリは簡単なのでいいやと。それはヒントですよね」と答えた。またスタイルの構築に関しては「俺だけがずーと頭にネタ入れて、洋八は何でやねんって言えみたいな。ウチは作りは無茶苦茶。だからテンポ上げるんですよ。お客さん気づかへんやろみたいな。だってやすきよさん とか、仁鶴師匠 とかいとし・こいしさん とか上手いじゃないですか。あんな芸ないですもん。だから取りあえず速く喋っとけみたいな。叩くは押すは、誤魔化しみたいな漫才やった」と話している[ 9] 。
喋りのスピードを上げたのは、横山やすし に「お前の声は聞きやすい。速く喋っても耳に届く。テンポを上げた方がお客は笑うで」とアドバイスを受けたのが切っ掛け、「横山やすしさんから直接教わったのは自分くらいでないか」と『メントレG』出演時に話した[ 142] 。稽古で洋八があまりにもヘタでイライラしていると、横で聞いていたやすしが「洋七、怒るな。あいつがしゃべれんのやったら、お前がネタ振って自分でボケろ。両方やれ」と的確なアドバイスを頂いて、それで新しいスタイルが生まれた、B&Bのスタイルを確立してくれたのはやすし師匠だと思うと話している[ 出典 79] 。それに頭の回転が速かった佐賀のばあちゃんからの影響もあったと思うという[ 145] 。上岡龍太郎 は「B&Bの相方をいじめるパターンのネタの元祖は、姿三平・浅草四郎 」と述べている[ 146] 。吉本興業前社長・吉野伊佐男 は「衣装革命を起こしたのは中田カウス・ボタン で、その衣装革命を受けて出たのがB&B」と述べている[ 147] 。洋七は「カウス・ボタンさんを真似してジーパンにトレーナーを着ることにした」と述べている[ 42] 。ザ・ぼんち・里見まさと は、「B&Bのネタはテンポが速く、いくつものネタを洋七のその場の判断?思いつき?で次から次へと進めていく。どのネタ部分で終わるのかわからない」「ザ・ぼんちは、比較的オーソドックスな漫才だったので、花月などで続けて出演した場合、出番がB&Bの直後になろうものならあのスピードに吹き飛ばされた。B&Bのネタはスゴかった。そしていま42年間を振り返ってみても、ぼくは絶えずB&Bを追いかけていたように思う。当時も意識して、なりふりかまわず、スピードがあって動きのあるネタをつくらなあかんと、ぼくは考えた。B&Bに吹き飛ばされないネタをつくるんだと、そのことだけを考えた漫才をやった」などと話している[ 30] 。
洋七は人気が爆発した1980年8月の雑誌インタビューで、自分たちの漫才スタイルについて「テクニックなんもいらへん。けなし合いだけや。間もなんもなしで、ただしゃべくりやっとったらそいでいいねん。ネタはま、作りますけど、大まかにテーマ決めとくだけやね。あとは舞台上がってからや。舞台上がったら洋八の方が合わす。もう、ムチャクチャ急に言いよるから『ええかげんにせエ』っていうでしょ、そうすると『ええかげんにしますウ』とか返事しよるし、『ちょっと待てエ』言えば『待ってるがな』とじっとしてる。『あっち行け』なんていうと舞台降りちゃったりね。ラジオ番組には出れないですよ。お客さんいないと、とてもできないですもん、うちら。漫才というもんからいけば邪道やね、まあ。そやけど漫才もせいぜい秋口でっせ。漫才ブームなんて、すぐ終わりますワ。要はブームに乗っかるよりいかにして残るか、これだ。常に日本で五本の指に入るとこにいたいでんな。そうすりゃ、タレントとして生きられまんがな。あきられないようにするには、ネタ売らんで人間性を売ることやね。漫才やって初めてオモロイっちゅうんじゃなくて、普段見ただけで『オモロイやっちゃ』と言われる人間でいようっていうことですワ」などと述べている[ 55] 。元々洋七が一方的に喋り、時折、洋八が合いの手を入れるスタイルではあったが、忙しすぎてこのスタイルに拍車がかかった[ 31] 。B&Bはライブ感があったと評されたのは、洋八は洋七がその舞台で何を喋るのか聞かされずに舞台に出ていたからであった[ 31] 。
前述の『漫才歴史ミステリー 笑いのジョブズ』(朝日放送)は、漫才を一夜に変えた人物、革命を起こした人物=「笑いのジョブズ(スティーブ・ジョブズ )」の正体に迫る歴史ミステリーという内容であったが、漫才ブームが興ったあの夜、1980年 4月1日 「THE MANZAI 」の舞台に現れた7組の漫才師、ツービート 、B&B、ザ・ぼんち 、横山やすし・西川きよし 、島田紳助・松本竜介 、星セント・ルイス 、中田カウス・ボタン に加えて、やすきよ が漫才を再開する切っ掛けを与えたWヤング 、そして洋七に漫才スタイルにヒントを与えた国分健二 を1980年代の漫才ブームに於ける「笑いのジョブズ」に認定した[ 9] 。
ネタ は全て洋七の自作[ 148] 。ほとんど洋七が喋るためネタ合わせもしない[ 149] 。ネタ合わせをしたのは後述する消防士ネタ"だけという。こうしたB&Bら若手の漫才を古川嘉一郎 は当時、「自作自演、台本なし。仲間うちのシャレをそのまま出してきた。わたしら、感性の漫才てなこというとるんですが」と嘆いた[ 150] 。漫才ブーム以降の漫才師はネタは自作が多く、澤田隆治 は「作家はいらん」と言ったという。漫才ブーム以降は芸は不要、キャラクター が売れる時代になったという見方がある[ 151] 。
洋七の話はウソやホラが多いといわれる。1981年8月にツービートのコンサートと『ビートたけしのオールナイトニッポン 』の生放送が広島であり、これに洋七も同行。空いた時間にたけしに広島を案内したが、「タケちゃん、ほんまアメリカは無茶しよるで、なんで平和公園 に原爆 落とすんや!!」「落とされた時、ほんま見たんや!」「原爆ドーム は昔あそこで鳥を飼ってたんやで」などと話がメチャクチャだったとたけしは述べている[ 152] 。一方的な洋七のしゃべりは、時にはブレーキが利かなくなり、現実とシャレの境目がわからなくなる[ 12] 。自分の経歴ですらその場の空気によっては、マジとシャレを入り混ぜて話してしまい、それが独り歩きしてしまっていると考えられる[ 12] 。ノリとスピードに虚と実が交錯する、いい加減さとノリのよさこそが、B&Bの最大の面白さだったといえる[ 12] 。
ギャグ
B&Bのギャグ の代表格と言えば「漫才ブーム」を代表するギャグでもある「モミジまんじゅうー! 」である[ 出典 80] 。もみじ饅頭は、B&Bの一世を風靡したパフォーマンスによって全国区になった[ 出典 81] 。
一発ギャグ 「モミジまんじゅうー!」の誕生の経緯であるが、これはネタ ではなくアドリブで偶然生まれたものだという。お互いの出身地、広島と岡山を自慢し合い、けなし合うという、元祖、"ご当地漫才"[ 156] ともいわれる有名な「広島VS岡山漫才」[ 157] の中で使われるギャグだが、これも最初から台本はなく、岡山と広島の褒め合い、けなし合いをしようとだけ決めて1976年 、うめだ花月 の舞台に出たのが始まり[ 158] 。洋八から岡山はマスカット や桃 が有名だと言われ、その時広島には有名な食べ物は何があるだろうと考えて、何も思いつかず。ふと、全国的にはあまり知られていないが、そういえば「もみじ饅頭」があったなと思い出して「モミジまんじゅうー!」と脈絡なく、口を突いて出た[ 158] 。誰も知っている人はいないから無反応だったが[ 159] 、洋八が「どんなんや」と言うので、その饅頭の形を思い出しながら、もみじの形を手振りしながらやると会場がどっとうけた[ 159] 。「これだ!」と思い、以降、一発ギャグとして使うようになったという[ 159] 。看板ネタでもある「広島VS岡山漫才」は、数年間受けなかったが、これをやり通し、回りから「もうそのネタやめたら」との声も出たが、「売れた上でもマンネリならやめるが、今はこれで勝負したいんです」と譲らず、しつこく続けたものであった[ 28] 。
もみじ饅頭 も(広島のお好み焼き も)1970年代 当時は全国的にはほとんど知られていなかった[ 159] 。もみじ饅頭も、このギャグが流行るまでは、広島県民にとってもあまり馴染みのあるものでは無く「宮島 に行きゃぁ売っとるよ」という程度の存在だったが[ 注釈 11] 、このギャグのブームでメーカーが15社から一気に200社にまで増えた[ 出典 82] 。その中でも最大手のにしき堂 は売上が5割増えたとも[ 出典 83] 10倍に跳ね上がったともいわれ、最盛期には修学旅行 のコースにもなって生産が追いつかず、深夜にまで工場を稼動させていた[ 161] 。大きな工場を新築できたのはB&Bのおかげともいわれる[ 154] 。もみじ饅頭はB&Bのギャグによって全国区になり[ 161] 、ブームが終わった後も完全に広島土産として定着し[ 163] 、現在でもメーカーは100社程度ある[ 出典 84] 。広島のお土産物屋では今でも1/3のスペースがもみじ饅頭で占められる。
広島県民にとってあまり馴染みが無かった「もみじ饅頭 」を、洋七が広島名物のギャグとして使った理由は、洋七が佐賀に預けられていた時代に、たまたま母親がにしき堂 の近くの食堂で働いていて、毎月の仕送りと一緒にもみじ饅頭を入れて佐賀に送っていたため[ 出典 85] 。「もみじ饅頭」は、遠く離れた母親を思い出す味であり、洋七にとって故郷・広島の味として強烈に記憶に刷り込まれた物だった[ 出典 86] 。洋七は今でも「もみじ饅頭」を見ると涙が出るという[ 154] 。
洋七の功績に感謝したにしき堂の大谷照三会長は、お礼に現金5000万ほどを手渡そうとしたが、洋七は逆に「我々ももみじ饅頭のお陰で売れた」と受け取らなかった[ 154] 。しかし、大谷会長が感謝の気持ちを表すため、広島の飲食店に対して「B&Bの飲食代は当人から受け取らず、にしき堂へ請求書を回せ」と指示している説があり、洋七は今でも広島へ行くと、店がお金を受け取らないため飲食費は無料とのこと[ 154] 。大谷会長が2015年に死去した際、洋七は葬儀で弔辞を読んだ[ 159] 。
「モミジまんじゅう〜!」のギャグが流行った時、広島の県菓に選ばれ宮島で表彰された。二千人位の参列者の前で、一枚板の3メートルもある巨大しゃもじ を渡された。「このしゃもじは由緒ある何某寺に奉納されたもので…」と言われたため「いらん」と言えず、半分にして持って帰るわけにもいかず。結局梱包して宅配便 で送ると5万円かかった。しかし大きすぎて家に入らず、仕方なく物置を70万円かけて作り斜めに入れた。やはり使い道もないので処分することになり、高野山 まで運んで奉納して拝んでもらい燃やしたら100万円かかったという[ 166] 。
1982年 10月17日 にテレビ朝日 系で放送された刑事ドラマ 『西部警察 PART-II 』第18話「広島市街パニック!!」は、広島市内を中心としたロケで、終盤には広島電鉄 の路面電車 を爆破するなど[ 167] 、大がかりなアクションシーンで広島でこの回の視聴率 が49.6%を記録したといわれ[ 167] 、同ドラマの傑作選として今でもよく再放送されて有名であるが[ 167] 、B&Bはこの回のゲストとして出演している[ 167] 。役柄は洋七がにしき堂の従業員で、広電の市内電車をジャックした犯人に狙われるという設定で、実際ににしき堂の本社・工場でロケ が行われた[ 167] 。一方、洋八は洋七の友人役で同じく地元企業であるチチヤス ヨーグルト の工場で働く従業員という設定であった。路面電車ファンからは大顰蹙を買った[ 167] (詳細→広島電鉄#その他 )
2013年 7月から始まったデイリースポーツ のMEMORIESシリーズ連載スタートにあたり、洋七は担当者から「人生もみじまんじゅう」という意味不明のタイトルを提案されたが、これを拒否し「島田洋七のこんな人生でゴメンね」と変更した[ 168] 。
「モミジまんじゅう~!」以外のギャグとしては、洋八のアフロヘアー をジャングルに見立て髪を掴んで頭の中に「小野田 さ〜ん!」と叫ぶ、クイズ「リンゴとミカン、どっちがバナナ」、脳天気に明るく笑って「めちゃめちゃ陰気やで〜」と踊る、などがある[ 3] 。B&Bは洋七が一人でしゃべって、洋八がタイミングよくツッコむ という形態なので「練習・打ち合わせはしない。したのは消防署のネタだけ」(洋七談)と言う。消防署のネタというのは、セリフをアクションを交えて洋七が少しずつ見せて洋八に復唱させる、というもので、最初は短いので出来るが段々長くなり出来なくなるというネタである。正式題名は"消防士の生きざま"という[ 46] 。
逸話
1970年代後半、吉本はやすしきよし やコメディNo.1 、Wヤング 等、実力者が揃って層が厚く、洋七らの喰い込む余地はなく、吉本に相談したら「ザ・ドリフターズ みたいなんをやれ」と言われ1978年、リーダーの洋七が楽屋でザ・ぼんち 、のりお・よしお に、明石家さんま に声をかけて洋七が『ビールス7』(後にチンチラチン)を作った[ 43] 。「ヤングおー!おー! 」(毎日放送 )の林プロデューサーに、「番組でウケたらコーナーを持たせてやる」と言われたがコントの練習中、キャラの被る西川のりお と度々殴り合いの大ゲンカを繰り返し、当時まだ20歳そこそこだったさんまが仲裁に走った[ 出典 87] 。二人の機嫌をとるため代わりに殴られ「初めて大人の汚い世界を見た」という[ 171] 。『ビールス7』の前説が好評でレギュラーになるという時になってB&Bが外され、紳助・竜介 が代わりに起用、大きな人気を得た[ 43] 。外された理由をプロデューサーに聞いたら「若い方がええ」と言われたというが、洋七は「ヤングおー!おー! 」のレギュラーだった桂きん枝(後の4代桂小文枝 )が以前、飲み屋で洋七と間寛平 に引き摺り回されたことを恨み「あいつら若いのに生意気」とプロデューサーに口添えしたのが外された本当の理由と話している。弟弟子にレギュラーの座を奪われた洋七の吉本への不信は決定的となり東京行きを決意するに至った[ 出典 88] 。
上記の件から、のりおとは犬猿の仲。B&B再結成時の劇場の前座でのりお・よしおが漫才をしたが、「客を温めて」おくのでなく客を「疲れさせた 」のでB&Bが登場してもウケず、洋七が激怒。のりおの泊まっているホテルへ乗り込むも不在で、鍵を開けさせ中に入り衣装を破き、薬を捨てた逸話があり、その後のりおから「請求書」が届いたというオチもある。しかし、現在は不仲ではないようで、松本竜介 の葬儀・告別式に共に参列している。「個人的にはのりお・よしおが大好きです」と述べている[ 19] 。正しくは、B&B再結成時ではなく、間寛平 とコンビを結成した時の「花王名人劇場 」でのひとコマであり、漫才で「疲れさせた」 のではなく、番組途中の芸人仲間のトークコーナーでのりおが暴走して「疲れさせた」 のである。のりおがホテルに不在だったのは、寛平が「あいつは許さん!」と番組終了後の楽屋で言っていたのを聞いた某芸人がのりおに伝えたため逃げた結果だったと、名人劇場放送翌週放送の「オールナイトニッポン」でビートたけし が暴露していた。
6年間に二度も相方に逃げられた失意の洋七に洋八を紹介したのは桂三枝(後の6代桂文枝 )とされる。その後洋七自身が「俺と一緒に漫才で勝負しよう」と役者志望の洋八を口説いた。三枝は舞台袖で進行係をしていた洋八を「あいつ、どうや?」と指さしただけだが、「あいつ男前やんか。これからは漫才も男前が売れるぞ」と言ったという[ 24] 。
『お笑いスター誕生!! 』の10週勝ち抜きチャンピオンの座は実力からして獲得できて当然であるが[ 3] 、洋七自身「あの番組には出来レース的な演出があった」と後に述べている。『お笑いスター誕生!!』が始まった1980年4月時点でB&Bは既に『スター千一夜 』(フジテレビ )に3回も出演するなど、絶大な人気を誇る「スター」であったが[ 31] 、企画書を取り寄せた洋七が興味を持ち、素人に負けようものなら、その地位を失いかねないと猛反対する事務所社長を「素人の前で、プロはこんなにおもしろいんやということを見せつけてやったらええやないの」と説き伏せ出演したもの[ 出典 90] 。
高額なギャラのエピソードとして1回1,000万円というものがある[ 31] 。茨城県 日立市 の日立工場 はそれまで従業員の福利厚生 として、従業員と家族2~3,000人でバスを貸し切り旅行に行っていたが、その年は社員運動会 をやることになった[ 31] 。そこで浮いたお金で人気絶頂のB&Bを呼ぼうとなった[ 31] 。しかし予定された祝日は午後イチでスタジオアルタ からの『笑ってる場合ですよ! 』の生放送 があり、収録後に日立に行ったのでは運動会に間に合わない。改めて断りの電話を入れたら「B&Bさんが来ます!というお知らせをしたところ、従業員のお子さんたちが大喜びしてます!」と言われた[ 31] 。これでは断るに断れないと追い詰められた事務所は、アルタでの収録後、タクシー で木場 に移動し、そこからヘリコプター で日立の運動会に駆け付けるというウルトラC を敢行した[ 31] 。ヘリの往復代金は120万だった[ 31] 。
漫才ブームの中で曲を最初にヒットさせたのは、ザ・ぼんちであるが、レコードを発売したのはツービート・B&Bの方が早かった。
CBS・ソニー からのオファーで[ 173] 、1980年9月発売『恋のTake 3』は1981年に入りそこそこ売れた[ 173] 。舞台では漫才を20分やった後、歌をやるとファンも大ノリで、手拍子をとって立ち上がり一緒に歌い、思わず「オレはアリス か!」と思ったと述べている[ 173] 。ビートたけしのように歌に思い入れもないB&Bは、歌もギャクに徹した[ 173] 。歌詞も覚えないので当然口パク [ 注釈 12] 。ギャグとして歌が流れているのにファンに握手しに行ったり、とてもウケていた[ 173] 。
受賞歴
レコード
シングル
恋のTake 3(1980年9月21日) 07SH846
作詞:高田ひろお 作曲:鈴木邦彦 編曲:鈴木邦彦
(c/w)ミツコ
作詞:高田ひろお 作曲:鈴木邦彦 編曲:鈴木邦彦
潮風の香りの中で(1981年5月1日) 07SH972
作詞:高木佳代 作曲:下園千晶 編曲:矢野立美
(c/w)ひとり旅
作詞:下園千晶 作曲:下園千晶 編曲:矢野立美
泣き虫ハイウェー(1981年10月1日) 07SH1056
作詞:吉村優輝 作曲:鈴木邦彦 編曲:鈴木邦彦
(c/w)TOKYO CAR BOYビリー・ザ・キッド
作詞:松本一起 作曲:鈴木邦彦 編曲:鈴木邦彦
世の中わからない節(1981年11月21日) 07SH1095
作詞:島田洋七 作曲:島田洋七
(c/w)おんど笠岡
作詞:吉村優輝 作曲:信楽順三
人生オモロイで(1985年8月、島田洋七、国分健二) AH632
作詞:鳥井実 作曲:松浦孝之 編曲:池田孝春
(c/w)同カラオケ
アルバム
人気もん!ふたり旅 (1981年) 28AH1281 収録曲A面:恋のTake 3/ミツコ/いつも心にプロポーズ/B.B.プロポーズ 収録曲B面:潮風の香りの中で/涙のテディ・ボーイ/ピンナップ・ベイビー・ブルース/ひとり旅 ※ 「人生オモロイで」のみコロムビア 、他は全てCBSソニー よりリリースb
書籍
『B&Bの仁義なき戦い 広島ヤクザと岡山ギャングの巻』 KKベストセラーズ (1980年9月)
『B&Bの愛しかた愛されかた』 KKベストセラーズ(1980年12月)
『B&Bと遊ぶ本 いたずらハイスクール<爆笑編>』 KKベストセラーズ(1982年1月)
ドラマ出演
ラジオ番組
脚注
注釈
^ 『サンデー毎日 』1980年10月5日号「大特集秋の新番組を彩る『100人の顔』」という記事の「笑ってる場合ですよ! 」B&Bの紹介に「『ヒロシマー』、『オカヤマー』のギャグで東京進出、一大旋風を起こす 」と書かれている(149頁)。また、『近代映画』(近代映画社 )1981年5月号「B&B笑いも歌も大ヒット! 歌ってノッテくるとアリスの気分ですワ!」というB&Bのインタビュー記事では「80年後半から81年にかけて、“ザ・マンザイ”お笑いブームが全国に吹きあれて“ぼんち”“B&B”“ツービート”等、数多くの人気者を生み出しましたが、そのブームの発火点 でもあり、中心核 でもある“B&B”のおふたりにインタビュー」と書かれている(149頁)。同じ『近代映画』1981年8月号の「高島秀武のヒゲタケ対談 ᗺ&B言いたい事をワーワー言うのが原動力でんな」という記事では「機関銃のように面白いギャクをつぎつぎと放って、ステージを右から左へフルに動きまわって、エネルギッシュなお笑いを爆発させるB&Bの洋七、洋八さんコンビ。お笑いブームを巻きおこした おふたりだけに超売れっ子の過密スケジュールをぬって、ヒゲタケさん対談のゲストにおむかえしましたが、ステージそのままのニギヤカな素顔をポンポンととびださせて、疲れも感じさせないお笑いの元祖 ぶりでした」と紹介されている(150頁)。また『別冊宝島special 昭和発掘 黄金の時代、再び 秘蔵写真と証言で蘇る、昭和メモリー』2017年、宝島社 では「昭和の終わりに沸き起こった『漫才ブーム』。その先頭をぶっちぎりで駆け抜けた のがB&Bだ。絶頂期は短かったが、女子中高生をとりこにしたコンビはプロ野球最高年俸をはるかにしのぐ稼ぎを叩き出した」と小見出し で紹介している。
^ 洋七が公言しているものの、初代B&Bの結成時点ではまだ浮世亭ケンケン・てるてるのコンビは存在しておらず(ケンケン・てるてるの結成は1974年)、洋七の誤認か記憶が混同している可能性が高い。ちなみに素人だった洋八とコンビを組み直した頃には、「ケンケン・てるてる」は芸人仲間からは一目置かれた存在だった。当時の相方である萩原芳樹も自分のブログでこの点を指摘しており、萩原は当時相方に参考として見せたのは同じ国分健二が別の相方と組んでいた浮世亭ケンボー・ヒロボーだったと壊述している[ 21] 。
^ 洋七が自著で記しているものの、洋七がNHK上方漫才コンクールで最優秀話術賞を受賞したのは1974年であり、相方は後述する上方真一(現・上方よしお)であった。これも洋七の誤認か記憶が混同している可能性が高い。
^ 吉本が東京事務所を設置したのは1980年10月。かつては東京に演芸場を持っていたが撤退していた[ 54] 。社員は木村政雄 と当時若手だった大﨑洋 の二人でスタートした[ 出典 24] 。
^ 独力で所属先を決めることが出来ず、結局吉本の木村政雄 に紹介してもらった戸崎事務所とマネジメント契約を結ぶ[ 出典 27] 。東京の漫才協団にすんなり加入できたのはこのため[ 出典 28] 。木村政雄 は「彼らはまだ、会社として問題になるほどのタレント でもなかった」と述べている[ 59] 。
^ 漫才ブームが爆発した1980年8月、週刊朝日 は“MANZAIはどこかた来たか”というB&Bら当時の若手の漫才についての考察を載せている。要旨は以下のようなもの。やすしきよし が登場したとき、そのあふれるようなスピード感と生活実感にびっくりしたが(今の若手の漫才)は、スピードがさらに速い。ストーリーもない。会話すらなくて、一方的なギャグの連発。相棒は合いの手を入れるだけ。そのギャグにしても観客全体を相手にしてはいなくて、わかるヤツにはわかる、わからんヤツにはわからなくていい。むしろわからんでくれればウレシイ、といわんばかりのポーズである。少なくとも、いまの漫才ブームの先頭を走るコンビたちは、これまでの漫才から遠く隔たっているようにみえる。「ヤングおー!おー! 」の浜本忠義は「いまの漫才を、これまでの漫才の流の中に位置づけるのは難しい」。読売テレビ の有川寛は「かつて漫才は"庶民"を相手にしていた。漫才師がアホになって、客を満足させていたんです。しかし、いまや"庶民"はいない。みんな中産階級になってしまった。漫才は長くその変化に追いつけなかったけど、ここへ来て急激に変わったということでしょう」と話す。また、驚くべきは、昨今の漫才における「言論の自由」の拡大である。その成果は大変なものがある。それまで「差別」に対する批判コワさに、われわれはどれほどびくびくとモノを書いていたか。テレビ局はどれほど神経をとがらせていたか。若手漫才師たちがあっという間に成し遂げた偉業、無謀について深い感慨を持つ。それでも笑って済むのはなぜか。差別も罵倒も、極限までいくとむしろ抽象化されて、アッケラカンとしたホンネの笑いしか残らないのだろうか。古川嘉一郎 は「芸といえば、それが一種の芸でしょうね。言葉が一種符丁化されて、ナマナマしい意味を持たなくなっている。きわどい芸です」と話す。今はギャグの時代。ジャリ文化はギャグ漬けになっている[ 88] 。
^ 『メントレG 』(2007年12月16日放送)は「ツービートとともに漫才ブームを引き起こす」と紹介。
^ レギュラー週19本は、ブーム最盛期の1981年8月の『近代映画』(近代映画社 )8月号のインタビュー「高島秀武のヒゲタケ対談」でも洋七が話しており、テレビ・ラジオのレギュラーが週19本、その他単発も入ってきて、その19本を月曜から金曜までに撮る。土、日曜は地方営業と話している(150-153頁)。
^ 似た内容の記述[ 124] 。
^ 似た内容が、島田紳助の著書『自己プロデュース力』ワニブックス 、2009年、p49-56に記述。
^ もみじ饅頭は厳島参詣の人たち限定の宮島みやげであった[ 160] 。
^ 洋七はこれを"パクパク"と表現し『近代映画』は"テープに口をあわせているだけ"と注釈[ 173] 。
出典
^ a b c d e #77 島田洋七(芸人) 輝きYELL! (Internet Archive)、島田洋七「講演で日本一になったる」 、2013年02月10日(日) - 今日は何の日? 『がばいばあちゃん』の孫、島田洋七が生まれる- CDJournal.com Archived 2013年11月11日, at the Wayback Machine .)“島田洋七 漫才ブーム時代は銀座で豪遊も…ビートたけしと感じたむなしさ「俺ら、何なんだ?って」” . スポーツニッポン (スポーツニッポン新聞社). (2023年5月6日). オリジナル の2023年5月7日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20230507053218/https://www.sponichi.co.jp/entertainment/news/2023/05/06/kiji/20230506s00041000517000c.html#goog_rewarded 2024年2月7日 閲覧。 (土) 第234回 ゲスト:島田洋七×東尾修 - BS朝日 - SUZUKI presents「極上空間」 Archived 2016年7月4日, at the Wayback Machine .)、2015年10月17日放送、ザ・ぼんち・里見まさと 『おおきに! 漫才 人生は何歳からでもやり直せる 』、ヨシモトブックス 、ワニブックス 、2013年、p57
^ 島田洋七 - be amie オスカープロモーション所属タレント・モデル公式SNS Archived 2012年10月8日, at the Wayback Machine .)
^ a b c d e gendai04424 2004 , pp. 192–195
^ 空前の「MANZAIブーム」40年感謝祭!(1)<島田洋七(B&B)>デパートの紙袋で持ち歩いた全盛期のギャラ
^ a b c d e f g h i j k l m n o 漫才師・島田洋七…紳助に目標にされ、たけしに愛された男の新刊に潜むサプライズ 、本多圭の「芸能界・今昔・裏・レポート」 MANZAIブームの立役者「B&B」の島田洋七、70歳でYouTuberデビューの裏事情 、島田洋七監督の『がばいばあちゃん』が公開前から大ピンチ!- 日刊サイゾー 、島田洋七監督映画『がばい』大コケでもタダでは起きない ... - 日刊サイゾー 、ざわめく吉本興業の暗部......「コメディNo.1」前田五郎の1億2,000万円訴訟に和解勧告 、オスカー移籍の島田洋七が若手芸人たちに宣戦布告! - 日刊サイゾー
^ a b c 島田洋七インタビュー 谷内誠 (2009年). “ぴいぷる 島田洋七 がばい伝道 忙中歓あり(11/11) ”. ZAKZAK . 産業経済新聞社 . 2009年6月15日時点のオリジナル よりアーカイブ。2024年2月7日 閲覧。
^ a b c d e f g “連載 岐路の風景漫才ブーム 上方パワー「どん底」からの爆発 作家とテレビが支え” . 毎日新聞大阪 夕刊 (毎日新聞社 ). (2017—08–22). オリジナル の2018年1月23日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20180123045506/https://mainichi.jp/articles/20170822/ddn/013/040/022000c “「B&B」島田洋八 カラオケが大病乗り越えたパワーの源泉 ムード歌謡でしっぽり” . 毎日新聞 (毎日新聞社 ). (2024—01–26). オリジナル の2024年1月25日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20240125212310/https://mainichi.jp/articles/20240126/spp/000/006/000000c 2024年2月6日 閲覧。
^ a b c d e f g h i j k l m n “ツービート、紳助・竜介…「漫才ブーム」傑作ネタ! ”. 日刊大衆 . 双葉社 (2020年5月1日). 2020年5月16日時点のオリジナル よりアーカイブ。2024年2月7日 閲覧。
^ a b c d e f g h i j k l m 漫才歴史ミステリー 笑いのジョブズ(朝日放送)2013年3月24日 (漫才歴史ミステリー 笑いのジョブズ - 関東版TVトピック検索 - Goo (Internet Archive)
お笑いナタリー - 漫才界のジョブズを解き明かす歴史ミステリーまもなく放送 )、「笑いのジョブズ」をご覧になった方へ: 続・お笑い作家の吐息
^ a b c d e 「島田洋七 佐賀のがばいしくじり先生」『しくじり先生 俺みたいになるな!! 』3時間SP、テレビ朝日 、2016年7月18日放送(そんなにしくじっていたの? 島田洋七、波乱万丈の半生を赤裸々告白 、島田洋七、参議院選挙落選は「あの有名芸人の演説が原因 ... - 日刊大衆 、『しくじり先生』島田洋七が語らなかった“吉本退社”全真相「事実上のクビだった」 Archived 2016年7月22日, at the Wayback Machine .)。
^ a b c 「島田洋七のこんな人生でゴメンね」デイリースポーツ連載(13)2013年7月23日
^ a b c d e & 80年代 2013 , pp. 2–4
^ a b c d e f g h i j k l m n “島田洋七『がばいばあちゃん』秘話、ビートたけしがつけた“売れなかった”本のタイトル ”. 週刊女性PRIME . 主婦と生活社 (2021年6月6日). 2021年6月6日時点のオリジナル よりアーカイブ。2023年6月13日 閲覧。
^ a b c d e 笑福亭仁鶴さんの何がすごかったのか。島田洋七が語る“発明”と2枚の色紙
^ a b c d e 「島田洋七のこんな人生でゴメンね」デイリースポーツ連載(14)2013年7月24日
^ a b c d e f g h i j k & 80年代 2013 , pp. 5–6
^ a b 転起力 2009 , pp. 87–88
^ 常松 2013 , pp. 143–144
^ a b c d “僕らが爆笑した「漫才コンビ」ベスト10を勝手にランキング! ”. 現代ビジネスプレミアム . 講談社 . p. 2 (2016年12月31日). 2018年5月4日時点のオリジナル よりアーカイブ。2018年10月5日 閲覧。
^ a b c 伝説の漫才師・浮世亭ケンケンさんが語る“失踪事件”の真相 、p-2 、p-3
^ 続・お笑い作家の吐息2013年03月25日 (詳細は後述 )
^ 続・お笑い作家の吐息2013年07月30日
^ a b c d e f g h i 「『紳助竜介』『やすしきよし』『ツービート』『B&B』 伝説のお笑いコンビ解散本当の理由20組 『B&B』島田洋七インタビュー」『週刊大衆 』2021年3月8日号、双葉社 、215頁。
^ a b c d e f g h i j k l トクベツキカク その後のがばいばあちゃん- SmaSTATION!!
^ 続・お笑い作家の吐息2013年03月04日
^ a b c d e 漫才を終えおじぎ「気持ちええ」(芸能) ― スポニチ Sponichi Annex 2年2カ月だけ「B&B」でした
^ a b c d e 島田洋七 | 金曜日 | バラいろダンディ | バラエティ | TOKYO MX (Internet Archive)Archived 2015年3月13日, at the Wayback Machine .)
^ a b c d e 中田 1981 , pp. 16–19
^ a b c d e f 新野 1981 , pp. 157–160
^ a b ぼんちまさと 2013
^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z aa ab ac ad ae af ag ah ai aj ak al am an ao ap aq ar as at au av aw ax ay az ba bb bc bd be bf 熊崎敬「人気はスーパーアイドル級!稼ぎはプロ野球最高峰のなんと10倍 B&B洋七がいま明かす漫才ブーム破天荒回顧録 」『別冊宝島special 昭和発掘 黄金の時代、再び 秘蔵写真と証言で蘇る、昭和メモリー』宝島社 、2017年、58–63頁。ISBN 978-4-8002-7588-2 。https://tkj.jp/book/?cd=12148301 。
^ a b 洋七の舞台見て「この人倒そう」と…島田紳助(1) 、【紳助ツッパリ列伝】「打倒!島田洋七」が芸能界“天下取り”の原点 Archived 2011年9月18日, at the Wayback Machine .<多様性なきバラエティ?>80年代のMANZAIブームと現在の芸人ブームの明らかな違い 、島田紳助 松本人志 著『哲学』幻冬舎 、2003年3月、30-34頁、島田紳助『自己プロデュース力』ワニブックス 、2009年、p49-56【読書感想】1989年のテレビっ子 、ラジオ黄金時代、JFN、1998年11月22日
^ 戸部田 2016 , pp. 35–42
^ a b <短すぎる賞味期限>8.6秒バズーカ「ラッスンゴレライ」はお笑いにとっては死に至る劇薬 Archived 2015年2月11日, at the Wayback Machine .)
^ 元吉本芸人の松稔がプロデュースするSTART LINEのアメブロ【過去の日記】のりお・よしお秘話①
^ 週刊朝日 、1982年1月29日号、p114-115
^ a b c まんざい 1981 , pp. 18–19
^ 第30回 MZ研進会・笑の会・上方演芸研進社mydo « winoue ... - 井上宏
^ 中本裕己 (2013年4月25日). “ぴいぷる 【大崎洋】吉本興業社長は“闘う人情家”「さんまが紳助を一番心配している」 ”. ZAKZAK . 産業経済新聞社 . 2018年4月28日時点のオリジナル よりアーカイブ。2021年2月21日 閲覧。
^ 週刊朝日 、1981年6月19日号、p119
^ a b c お笑いスター誕生 1981 , pp. 166–168, 170–176
^ a b c d “僕らが爆笑した「漫才コンビ」ベスト10を勝手にランキング! ”. 現代ビジネスプレミアム . 講談社 . p. 1 (2016年12月31日). 2017年7月7日時点のオリジナル よりアーカイブ。2018年10月5日 閲覧。
^ a b c d e f g 「島田洋七のこんな人生でゴメンね」デイリースポーツ連載(19)2013年8月1日
^ a b c d e f g 遠藤 2001 , pp. 218–224
^ a b ラジオ黄金時代、JFN、1998年11月15日 、浅草キッド 著『お笑い 男の星座』 文藝春秋 、2001年、p74-75
^ a b c d e f 爆笑王 2003 , p. 爆笑王
^ もくめレポート 第1回 平川さんの話(WヤングとB&B)
^ a b ぼんちまさと 2013 , pp. 54–58
^ 転起力 2009 , pp. 99–107
^ a b 常松 2013 , pp. 72–75
^ a b 大野正利 (2023年12月14日). “話の肖像画 吉本興業HD前会長・万博催事検討会議共同座長 大﨑洋<13> 「左遷」で東京へ…漫才ブーム到来 ”. 産経ニュース . 2023年12月14日時点のオリジナル よりアーカイブ。2024年2月5日 閲覧。
^ a b c d e f 読売新聞 、2010年3月27日21面 「光景、あの日、あの時、あの場所で16 漫才ブームここから 1980年1月20日」
^ 紳助親分の終末(1)ディスコで番組打ち合わせ
^ 『吉本八十年の歩み』1992年、p159
^ a b c d e POPEYE 1980 , B&B:広島と岡山の断層をマシンガン的に追及する
^ a b 東京スポーツ 、2011年9月4日、25面
^ a b 週刊文春 、2010年12月30日、2011年1月6日号、57-58頁
^ a b c 中将タカノリ (2018年1月8日). “ザ・ぼんちが漫才ブーム当時の薄給を告白! 「テレビ一本5400円」「『ザ・ベストテン』は4000円」” . ガジェット通信 (東京産業新聞社 ). オリジナル の2020年8月14日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20200814142014/https://getnews.jp/archives/2004915 2024年2月7日 閲覧。
^ a b c d e f 木村政雄 . “木村政雄の私的ヒストリー 第48話” . 木村政雄の事務所 . オリジナル の2017年10月11日時点におけるアーカイブ。. https://archive.fo/KcInB 2021年2月21日 閲覧。
^ a b 本多正識 (2022年8月25日). “お笑い界 偉人・奇人・変人伝うそかまことか… 島田洋七の80年代漫才ブーム時の仰天エピソード2選” . 日刊ゲンダイDIGITAL (日刊現代). オリジナル の2022年8月24日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20220824220536/https://www.nikkan-gendai.com/articles/view/geino/310296 2024年2月7日 閲覧。
^ a b c d 「島田洋七のこんな人生でゴメンね」デイリースポーツ連載(20)2013年8月2日
^ 転起力 2009 , p. 110
^ a b 島田洋七『俺の彼 がばいばあちゃんスペシャル劇場』 p39-40、徳間書店 、2007年9月
^ ラサール石井 著 『笑いの現場 ひょうきん族前夜からM―1まで 』角川・エス・エス・コミュニケーションズ 、2008年2月、p30-31
^ ビートたけし著『浅草キッド』太田出版、1988年、206頁
^ a b ビートたけし「B&Bにはかなわないと思った」 | ニュースウォーカー
^ a b 遠藤 2001 , pp. 227–228
^ a b “島田洋七が語った「たけしとの出会い」終電後に歩いて語り合った魂の4時間 ”. SmartFLASH . 光文社 (2023年3月13日). 2024年2月5日時点のオリジナル よりアーカイブ。2024年2月7日 閲覧。
^ a b c “澤田隆治さん死去「てなもんや三度笠」「花王名人劇場」” . 朝日新聞デジタル (朝日新聞社 ). (2021—05–16). オリジナル の2021年5月16日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20210516124943/https://www.asahi.com/articles/ASP5J75JFP5JPTFC00C.html 2024年2月7日 閲覧。
^ a b 河瀬大作他 (2016年5月3日). “1980年「MANZAI」に賭けた男たち 鬱屈した野心の化学反応が、大革命を起こした” . 日経BP . オリジナル の2020年8月8日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20200808071703/https://business.nikkei.com/atcl/report/15/070300016/043000019/?P=2&mds 2022年11月2日 閲覧。
^ つくる 2002 , p. 216
^ a b c 笑いは世につれ 戦後大衆芸能をふり返る(13) 東京漫才の若手たち 、笑いは世につれ 戦後大衆芸能をふり返る(14) 東西の対決企画 、笑いは世につれ 戦後大衆芸能をふり返る(15) 「MANZAI」の誕生 (archive)
^ a b c 「島田洋七のこんな人生でゴメンね」デイリースポーツ連載(21)2013年8月6日
^ a b 『上方放送お笑い史』読売新聞大阪本社文化部 編、読売新聞社 、1999年、p333-369
^ 「よしもと100年笑いは地球を救う 80年代漫才ブーム①」スポーツニッポン 、2011年9月24日26面
^ a b 小林信彦 『定本 日本の喜劇人 エンターテイナー篇』新潮社、2008年4月、162、198、199、201、小林信彦『笑学百科』、新潮社、1982年、p22
^ a b c d e f ツービート、B&B、ザ・ぼんちが語る「MANZAIブーム」の真実 、戸部田誠 (2020年12月21日). “てれびのスキマの温故知新~テレビの偉人たちに学ぶ~「佐藤義和」篇 ”. メディア応援マガジンSynapse(シナプス) . ビデオリサーチ . 2024年2月7日 閲覧。「たけし、さんま、タモリの育ての親じゃない!?」故・横澤彪氏の葬儀にBIG3は出席せず 、ラサール石井著 『笑いの現場 ひょうきん族前夜からM―1まで 』、p35―36
^ a b c d e f g h i j k メモリアル 1982 , pp. 4–37, 54–55, 60–61, 82–89, 96–98, 101–104, 125, 161, 252, 368, 370
^ 山下武 『大正テレビ寄席の芸人たち』東京堂出版 、2001年6月、p116
^ 島田紳助 松本人志著『哲学』、29、242頁
^ a b c 古川嘉一郎 他『上方笑芸の世界』、白水社 、1984年、p15-17
^ ぼんちまさと 2013 , pp. 1–5
^ a b 「花王名人劇場 テレビ時代の名人芸グラフィティ」、澤田隆治 、東阪企画、p44
^ 島田洋七『島田洋七とがばい芸人たち 笑魂伝承』、イーストプレス 、p2
^ 村上七郎 『ロングラン マスコミ漂流50年の軌跡』、扶桑社 、2005年、p178
^ 北野武『コマネチ!―ビートたけし全記録』、新潮社 、1998年、p229
^ 『昭和55年 写真生活』(2017年、ダイアプレス)p50
^ 週刊朝日 、1980年8月22日号、29、30頁
^ 漫才が愛され続ける理由 | Trace 「トレース」- NTTグループカード 、『M-1』決勝者がダウンタウンらの“名作漫才”をカバー ニュース-ORICON ラジオ黄金時代、JFN、1998年11月15日 芸能界「一発屋」外伝、宝泉薫、2001年10月、彩流社 、p16ながいやんの「ファイト!」: 漫才ブームと甦る「やす・きよ漫才」 Archived 2008年9月24日, at the Wayback Machine .) 島田紳助 松本人志著『哲学』、256、257頁紀伊國屋運営DVD/CD専門ショッピングサイト 「Forest Plus」 Archived 2008年9月24日, at the Wayback Machine .)『M-1グランプリ』とは何を目的に、何を審査しているのか?
^ 「『あまちゃん』で再注目! BACK To 80s 日本が一番明るかった、あの頃…」『サンデー毎日 』2013年8月15・25日号、毎日新聞社 、2013-8-18・25、172頁。
^ a b c d e 「MANZAI1980 笑いの革命児たち」『アナザーストーリーズ 運命の分岐点 』、NHK BSプレミアム 、2016年5月4日放送(アナザーストーリーズ 運命の分岐点「MANZAI1980 笑いの革命児たち」 Archived 2016年5月21日, at the Wayback Machine .)、漫才ブームの舞台裏に迫る特集放送でビートきよしら証言、爆笑太田も語る 、NHKが描く、マンザイブームの“真実” - 日刊サイゾー )。
^ a b 「漫才ブルータス 」『BRUTUS 』、マガジンハウス 、2016年11月、30頁。「漫才歴史読本」
^ a b c d 「「龍三と七人の子分たち」見て笑えバカヤロウ! じゃなきゃ暴(や)っちゃうぞコノヤロウ!! インタビュー 島田洋七 暴力は優しさの裏返しなんや」『キネマ旬報 』5月下旬号、キネマ旬報社 、2015年、28–29頁。
^ a b 遠藤 2001 , pp. 230–233
^ 「花王名人劇場」“お笑いの聖地”NGKで23年ぶり復活 ― スポニチ 、らくごくら::吉本興業、大崎洋新社長 Archived 2013年5月1日, at Archive.is ) ラサール石井著 『笑いの現場 ひょうきん族前夜からM―1まで 』、p32―35、「花王名人劇場 テレビ時代の名人芸グラフィティ」、澤田隆治 、東阪企画、p44 「花王名人大賞」 小林信彦著『定本 日本の喜劇人 エンターテイナー篇』新潮社、2008年4月、162、198、199、201頁
^ a b 花王名人大賞 1983 , pp. 82, 258, 388
^ ばあちゃんが、人生とおカネの先生 島田洋七さん :日本経済新聞
^ 大野正利 (2023年12月18日). “話の肖像画 吉本興業HD前会長・万博催事検討会議共同座長 大﨑洋<17> 養成学校にいた逸材たち ”. 産経ニュース . 2023年12月18日時点のオリジナル よりアーカイブ。2024年2月7日 閲覧。
^ a b c d 「売れっ子たちはアイドル化 しろうとコンビも続々登場」『週刊朝日 』、朝日新聞社 、1981年1月2、9日合併号、43–45頁。
^ 朝日新聞 、2009年10月22日16面
^ 足立克己『いいたい放題上方漫才史』、東方出版、p183
^ 週刊朝日、1981年2月27日、p42
^ a b 昭和ヒーロー 1989 , pp. 582–583
^ 『わたしの失敗II』、産経新聞出版、2007年、p19-26
^ 『サンデー毎日 』1981年1月4日・11日合併号、p151
^ ビートたけし『たけし 吼える!』飛鳥新社 、1984年、67-68頁。
^ 大村大次郎 『ビートたけしは「財テク」の天才だった!』、あっぷる出版社、2008年、p57、博士の悪童日記<2001年2月上旬~後編> Archived 2002年1月6日, at the Wayback Machine .)
^ 『上方放送お笑い史』p339
^ a b NBonlineプレミアム : 【横澤彪氏】「面白いことをどれだけまじめにやるか」に燃えていた」 (archive)、横沢彪 『犬も歩けばプロデューサー』 日本放送出版協会、1994年10月、p85-87
^ a b 一発屋外伝 2001 , pp. 10–27
^ ぼんちおさむが語る“漫才ブーム”の真相… 東京&大阪を1日2往復半!
^ a b 「島田洋七のこんな人生でゴメンね」デイリースポーツ連載(22)2013年8月7日
^ ながいやんの「ファイト!」: 漫才ブームと甦る「やす・きよ漫才」 Archived 2009年6月30日, at the Wayback Machine .)ぴいぷる:ZAKZAK
^ 『マルベル堂のブロマイド』、マルベル堂、文藝春秋 、p64、212
^ a b c 戸部田 2016 , pp. 82–92
^ 島田紳助 松本人志著『哲学』、p243
^ a b c d e 「梨元勝のタレントのぞき あっけないB&Bの解散」『サンデー毎日 』、毎日新聞社 、1983年9月25日号、127頁。
^ 東京スポーツ 、2011年6月12日、28面
^ a b ラサール石井 『笑いの現場 ひょうきん族前夜からM―1まで 』、p35―36
^ 「島田洋七のこんな人生でゴメンね」デイリースポーツ連載(22)2013年8月8日
^ 木村政雄. “木村政雄の私的ヒストリー 第69話” . 木村政雄の事務所 . オリジナル の2018年4月3日時点におけるアーカイブ。. https://archive.fo/1JWPz 2018年4月3日 閲覧。
^ a b 「島田洋七のこんな人生でゴメンね」デイリースポーツ連載(28)2013年8月20日
^ ビートたけし『たけし 吼える!』飛鳥新社 、1984年、67-68頁。
^ 北野武監督インタビュー キタノはいかにして加瀬亮を“ヤクザ” - シネマカフェ
^ 「島田洋七のこんな人生でゴメンね」デイリースポーツ連載(28)2013年8月16日
^ a b 『わたしの失敗II』 産経新聞出版、2007年、p19-26
^ レオナルド熊 「 '83年度の芸能界を総チェック 芸能界の出来事が社会問題になった… レオナルド熊のヤブニラミ選出'83 10大ニュース」『週刊平凡 』1983年12月15日号、平凡出版 、14-15頁。
^ a b c d e f g h 「B&Bの解散が象徴する『還流システム』のない『東の漫才界』の悲劇」『週刊朝日 』、朝日新聞社 、1983年9月30日号、149頁。
^ 産経新聞 、2009年5月5日14面
^ “決別”を撤回へ…洋七、結局元サヤ吉本“残留決意” - ZAKZAK Archived 2007年6月25日, at the Wayback Machine .)
^ B&B、5年ぶり復活ライブ あのメーカーが特別協賛 Archived 2013年5月14日, at the Wayback Machine .)
^ 「メントレ 」スーパーG秋の2時間大放出スペシャル、フジテレビ 、2006年10月9日
^ 「クイズ!紳助くん 」、朝日放送 、2008年6月23日(個人ブログ )
^ 『お笑い 男の星座』p71
^ a b 木村政雄. “木村政雄の私的ヒストリー 第100話” . 木村政雄の事務所 . オリジナル の2018年4月3日時点におけるアーカイブ。. https://archive.fo/vqF28 2018年4月3日 閲覧。
^ サンケイ新聞 、2010年12月2日1面
^ a b & 80年代 2013 , pp. 8–9
^ 『上方放送お笑い史』、p349
^ a b c 『昭和の名コンビ傑作選 第2巻 島田紳助・松本竜介: DVD付きマガジン よしもと栄光の80年代漫才』小学館 、2013年、p7
^ a b 癖アリ芸人『ウーマンラッシュアワー』をテレビ業界は使いこなせるか? Archived 2013年12月28日, at the Wayback Machine .)
^ 転起力 2009 , pp. 94–95
^ 『メントレG 』2007年12月16日
^ “島田洋七 漫才ブーム時のたけしの名言とは 俺らは売れて良かったけど…” . デイリースポーツ (神戸新聞社 ). (2016年7月18日). オリジナル の2016年7月18日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20160718144645/http://www.daily.co.jp/gossip/2016/07/18/0009297290.shtml 2017年1月8日 閲覧。 島田洋七、「たけしは前科1犯、紳助は0.5犯や」-スポーツ報知 Archived 2016年12月11日, at the Wayback Machine .)島田洋七、「しくじり先生」で洋八とサプライズ対面し涙「ごめんな」スポーツ報知 Archived 2016年7月18日, at the Wayback Machine .)
^ 「島田洋七のこんな人生でゴメンね」デイリースポーツ連載(15)2013年7月25日
^ 転起力 2009 , pp. 96–97
^ 桂米朝 ・上岡龍太郎 『米朝・上岡が語る昭和上方漫才』朝日新聞社 、2000年、p119
^ 大下英治 『吉本興業、カネの成る木の作り方』講談社 、2007年、p158
^ 『年刊 人物情報事典'83』 III芸能・スポーツ・世相編、日外アソシエーツ 、1983年、453頁
^ 文藝春秋|雑誌|本の話|自著を語る 島田洋七 『文句あっか!!』 Archived 2006年10月9日, at the Wayback Machine .)
^ 週刊朝日 、1980年8月22日号、29頁
^ ぼやいたるねん:笑芸つれづれ噺 Archived 2004年4月20日, at the Wayback Machine .)
^ ビートたけし、高田文夫 『ビートたけしの全面幸福』ニッポン放送 、2001年、66-67頁。ISBN 4-594-03172-2 。
^ “「新幹線で原稿読んでこい!」島田洋七が怒りのツッコミ 広島の平和記念式典で誤読連発の菅首相に…” . 東スポWEB (東京スポーツ新聞社). (2021–08–16). オリジナル の2023年6月13日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20230613030549/https://www.tokyo-sports.co.jp/articles/-/79988 2023年6月13日 閲覧。
^ a b c d e f g h i 社団法人宮島観光協会 |お土産|もみじ饅頭 、沿革(75年の歴史)|宮島の老舗 もみじ饅頭・やまだ屋 、「Eタウン」中国放送(RCC)2006年6月3日 、47CLUB スペシャルインタビュー 、中国新聞 、2007年11月30日26面、ピコ太郎『PPAP』の元ネタは荒井注!?「昭和の爆笑ギャグ」 - 日刊大衆 、生誕100周年もみじ饅頭物語 :西広島タイムス Archived 2011年9月8日, at the Wayback Machine .)ヒットの泉〜ニッポンの夢ヂカラ!〜 」、テレビ朝日、2013年1月6日放送(ヒットの泉〜ニッポンの夢ヂカラ!〜 ))(Internet Archive)
^ a b わが日々 にしき堂会長・大谷照三氏(5) お笑いブーム 中国新聞 、2006年9月30日10面(Internet Archive)
^ お笑いナタリー - 東京ダイナマイトがダウンタウンの漫才「誘拐」を完コピ
^ 名作漫才ネタの"カバー"は、お笑いの新たなスタイルになる? - サイゾー
^ a b 中国新聞 、2012年10月12日24面
^ a b c d e f 「広島発のパイオニア! もみじまんじゅう&漫才の衝撃! 島田洋七」『FLAG! vol.06』ザメディアジョン 、2016年12月23日、26-31頁。ISBN 978-4-86250-471-5 。
^ 朝日新聞 2009年1月28日、23面
^ a b c d e f 『日本全国「お土産・名産品」おもしろ事典』日本博学倶楽部、PHP研究所 、2008年、p20-22
^ a b 中国新聞 、2010年8月13日13面
^ 川島宏治のTHEひろしま・プラス1 やまだ屋社長の中村靖富満さん Archived 2017年8月25日, at the Wayback Machine .)もみじまんじゅうに行列、サミット警備完了の土産? 全国から最大2万4000人 広島の駅・空港の店は追加発注も
^ 「会社東西南北 中国 にしき堂(広島市東区) 大谷博国社長(下)」読売新聞 広島版、2011年9月16日30面
^ a b 『グレートマザー物語 』「 島田洋七の母 〜 涙のもみじ饅頭 〜」テレビ朝日 、2005年12月11日放送
^ 浅草キッド 『お笑い 男の星座』 p79-80、文藝春秋、2001年、自著『島田洋七とがばい芸人たち 笑魂伝承』、イーストプレス、p32-35
^ a b c d e f 石原プロモーション/著 『西部警察 SUPER LOCATION 2 広島編』 、カープ女子垂涎!? 西武警察で爆破した広島路面電車をトミカが徹底再現 松田史朗 (2022–02–02). “広島電鉄物語 第3回 駆ける 石原軍団、爆破・炎上する750形…そしてあの鉄道は全国区に” . 朝日新聞デジタル (朝日新聞社 ). オリジナル の2022年2月2日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20220202052005/https://www.asahi.com/articles/ASQ1W5X1HPDJPLFA004.html 2023年6月13日 閲覧。 SmaTIMES || smaSTAION!! - テレビ朝日#298(2008.08.09 OA)
^ 島田洋七『デイリースポーツ 連載(全36回)「島田洋七のこんな人生でゴメンね」(1)』デイリースポーツ 、2013年7月2日。
^ 戸部田 2016 , pp. 24–25
^ 「壮絶過ぎる師匠列伝」ザ・ぼんち再結成秘話
^ 20歳のさんま“猛獣使い”だった/芸能/デイリースポーツ online
^ a b 『BIG tomorrow』324、p83
^ a b c d e f 「B&B笑いも歌も大ヒット! 歌ってノッテくるとアリスの気分ですワ!」『近代映画』、近代映画社 、1981年5月、149頁。
^ 高須光聖オフィシャルホームページ「御影屋」>「御影歌」>「加地倫三」 Archived 2005年11月2日, at the Wayback Machine .)「ロンドンハーツ」「アメトーーク!」演出・プロデューサー 加地倫三氏
出典(リンク)
参考文献
関連項目
司会 審査員 グランプリシリーズ グランプリ獲得者 ゴールデンルーキー賞シリーズ 優勝 サバイバルシリーズ 優勝 オープントーナメント サバイバルシリーズ 優勝 関連項目 関連人物